二口圭子と吉屋彗美子「ねこまちさんぽ二人展」

10月19日、「ねこまちさんぽ二人展」が開かれてる西天満の「現代クラフトギャラリー」に行きました。 「ねこまちさんぽ二人展」は二口圭子さんの銅版画と吉屋彗美子さんの布・小物のコラボ展で、この日が初日で今週いっぱい24日の土曜日まで開かれています。

二口圭子さんは高校生の頃からの友人で、わたしの妻と同じ学校で、もうひとり今は信州の山郷で暮らしているT・Kさんの3人が美術部だったことから、わたしの高校でやはり美術部員だった友人2人と、今でいう合コンでしょうか、当時大阪中之島にあった「グタイピナコティカ」という常設展示場で会ったのが最初です。 ちなみにわたしの妻とはじめて会ったのもこの時で、捨てられた家電や機械の一部を組み立てて動く作品で有名なティンゲリーの作品で、何かの家電のモーター部分の軸先に紙を挟めるようになっていて、「自由にはさんでください」と書いてあり、妻はティッシュペーパーを細く短冊にしたものをはさみ、回転させると「きれい」と喜んだのですが、わたしは当時の500円札を4つに折ってはさみ、「こちらの方がきれい」とうそぶいて、その場の雰囲気を壊してしまったことを思い出します。いまもよく大人げないことをしてしまうことがありますが、その頃は何かにつけて反抗的でひねくれていたわたしという人間を象徴する出来事でした ともあれこの時以後、学校を卒業しても長い間友人だったのですが、23才ごろでしたか、あるきっかけで会わなくなり、わたしと妻は結婚し、わたしに島津亜矢を教えてくれた亡きK・K君とは人生を共にしてきました。 ところが、わたしたち夫婦が豊能障害者労働センターとかかわるようになり、妻が1983年に専従スタッフとなって阪急箕面線の桜井駅の裏路地でおでん屋を始めた時、お客さんで来てくれた近所のケーキ屋「グロスオーフェン」さんのSさんと友人になり、二口さん、T・KさんがSさんの友人とわかり、15年ぶりに再会したのでした。 二口さんはずっと美術をつづけていて、彼女の銅版画のファンの方がおられて、新作が一定の数になると開く個展やグループ展で確実に売れる作家になっていました。 彼女の作品はずばり、猫をモチーフにしたもので、彼女の家で暮らす歴代の猫たちの日常から紡ぎだされる物語にはゆったりした時が流れ、眠りと覚醒、日常と夢、そしてなによりもキリキリピリピリせず、ひとびとが生きていくのにもっとも必要な「頑張らない知恵」を届け、観る者をほっとさせます。 わたしの家にも2匹の猫がいますが、ほんとうに猫ほど何を考えているのか何も考えていないのかわからず、ああだったのかこうだったのかと、とんちんかなようで当たらずとも遠からずのような期待を抱かせ、愛玩動物のようで実は野性的な生き物もいないのではないでしょうか。 先代の猫は晩年、わたしたちの暮らしを見守り、わたしの病気の時はそばに付き添いながら顔を覗き込んだりしたものですが、日常生活の空間に、わたしたちの気づかない猫の世界が隠れていて、わたしたちの非日常が猫たちの日常であるような不思議な共同生活をしているのではないかと思ったりします。 ともあれ、二口さんの銅版画の小品は奥深く、その日常生活の空間に隠れている猫の世界の非日常ならぬ日常の絵巻物のようです。猫と暮らしているひとならだれもが「あるある」と思い当たるさまざまな猫のしぐさが繰り広げられるその不思議な世界を垣間見せるために用意された小さな窓のような作品群を見ていると、心が癒されるだけではなく、わたしのこころもからだもその世界に溶け込んでいきそうです。 彼女の銅版画は一見芸術作品としての冒険があるようには見えませんし、家を建てたり引越したり結婚したりという何かの記念日に用意される「壁掛け絵画」のように見えますが、人間の正義とか歴史とか働くこととか「たたかうこと」とか、肩に力が入り、いつも緊張に心をちぢませる生き方をそろそろ終わりにして、社会も個人ももう少しゆっくりした時間が流れる非日常の日常の世界へと生き方を変えてみませんかと静かに呼びかける「生き方変える絵画」(?)なのです。それは彼女がわたしの知らない15年の間のどこかでたどり着いた人生訓であるとともに、彼女の芸術の証明なのだと思います。 吉屋彗美子さんの布と小物の作品もまた、またちがうアプローチで日常と非日常の果てしない隘路から生まれる不思議なオブジェで、日用品を真似たオブジェなのかオブジェ化した雑貨の破片なのかよくわからないのですが、そのやわらかいフォルムが妙にエロチックでした。 二口さんの銅版画が「壁掛け絵画」として受け入れられやすいのにくらべ、吉屋さんの作品群は画廊の壁に取り付けられていてもどこか落ち着かず、たとえばいつもは当たり前に道具として使用している文房具や工具や雑貨が、夜寝静まるとそれぞれが命じられている用途や意味を放棄し、体を震わし自分勝手にしゃべりだすのではないかという不安をかくしているように、彼女の布や小物たちもまたいつそれぞれが生まれた物語をしゃべりだすかわからない「不思議な日常」の語り部のように思えるのです。 二人に共通しているものは日常の中で手なずけられた「そこにあってあたりまえの日常」がいつのまにか「そこにあるのが不思議な日常」へと変質してしまうことではないでしょうか。二口圭子さんの場合は猫というモチーフに、吉屋彗美子さんの場合は布という素材に憑りつかれていて、そう思うと二人の一見おしゃれな作品には不気味な「毒」が仕込まれている気がします。

二口圭子
吉屋彗美子

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