少年探偵団と橋下徹さん

子どもの頃、まだ家にテレビがなかった頃、少年探偵団が好きでした。
わたしはあまり活発な子どもではなかったのですが、それでも学校から帰ると近所のともだちとよく裏山でチャンバラごっこをしたり、路地や空き地で缶けりや三角ベースやドッジボールなど、それなりに子どもらしい遊びをしていました。
ひとしきり遊び、夕暮れに急いで家に帰ると、わたしの家の長屋の前ではかんてき(七輪)でイワシを焼くけむりがもつれるようにたちこめていましたし、街のいたるところに戦争の痕跡が残っていました。
そして、わたしの楽しみのひとつがラジオドラマ「少年探偵団」でした。「少年探偵団」は今の若い人にはなんのことかわからないかも知れませんが、大正から昭和にかけて日本の探偵小説の草分け的な小説家・江戸川乱歩の少年向け小説が原作のラジオドラマで、わたしは小説もよく読んだものでした。
物語は天下の怪盗で変装の名人である怪人二十面相と対決する名探偵明智小五郎を助ける、小林少年を団長とする少年探偵団の活躍を描いたもので、1936年に登場して以来、空前のヒットとなった小説から、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画などにたびたび登場しています。
怪人二十面相の犯罪に右往左往するだけのおとなたちに比べ、少年探偵団の活躍はめざましく、わたしたちこどもは拍手喝さいしました。いまふりかえって考えると、少年探偵団が大人たちの束縛から離れ、自らの意志で集まり、「怪人二十面相」という社会の課題を解決していくプロセスはいわば「こどもたちによる民主主義」の実験でもあり、放課後を利用した課外授業やクラブ活動のようでもありました。
かつて社会思想家のイリイチは、国家や都市が近代化するにつれて道や路地、広場など子どもたちの遊び場がうばわれたことと、産業社会に有用な大人になるために子どもたちを調教するために学校がつくられたと言いました。
そんな大人たちの事情にあらがうように、少年探偵団には大人たちが子どもを調教するためにつくった学校を奪還し、文字通り子どもたちの学び合う場にしようという思想が確かにあって、だからこそこどもたちから圧倒的に支持されたのだと思うのです。

わたしは昨今の橋下徹・大阪市長を中心に「大阪維新の会」がつぎつぎと打ち出している「教育改革」と、それに反対するひとたちとの論争を見たり聞いたり読んだりしていてどこか違和感を持ってしまいます。
わたしにはその論争に参加するほどの知識も情熱もありませんが、橋本さんが「ファシスト」であるとは思わないように、決して「改革者」とも思えないのです。
その違和感が何なのかを考えて行くと、橋下さんも橋下さんの政策に反対するひとたちも、子どもの未来は社会(大人たち)の想定内にあり、教育は子どもたちを社会に順応し、有用な大人に教育(調教)することとするパラダイムに立っているという点では同じなのではないかと思うのです。
そのパラダイムの中にある限り、強いリーダーを主張し、国際競争力に勝てる人材を育てるのが教育だとする橋下徹さんに、多くのひとびとがかつて小泉さんに持ったカリスマ性を感じたとしてもむりはないと思います。橋下さんは、実は長い間論争されてきたこれらの問題を「世論」がどう思っているのかをいつも気にしていて、おおかたのひとがこう思っているのではないかと思うことを政策にする迎合型の政治家だと思います。
子どもたちの学力をテストではかり、その点数で教員の「指導力」を採点し、「指導力」がないとみなされた教員を処分するとか、学区をなくし「学力」の向上が見込める学校に親を通して子どもを追い詰め、人気のない学校は廃校するとか、飛び級を認めるとか、そして、学校の教職員に君が代の起立斉唱を義務付ける条例案を提案したりと、今までにもそれを主張するひとたちが必ずいたものばかりで、彼が独自に提案しているような新しい政策は何一つありません。
結局のところ、大人たちの意のままにされる子どもたちの受難は終わることはないのでしょうか。学校が教育の場である前にこどもたちの学び合う場になることはこれからもないのかもしれません。もし、そうであるならば民主主義が約束したはずの学ぶ権利を教育に求めることは絶望的となります。教育のありようがテストという結果や大人たちの都合にふりまわされるとしたらとても不幸なことだと思いますし、生身の人間としての子どもたちの心を深く傷つけてしまうのではないでしょうか。
そして、「君が代」であろうが、「インターナショナル」であろうが、「上を向いて歩こう」であろうが、「イマジン」であろうが、起立斉唱を強制されることは子どもたちだけでなく、歌そのものにとっても悲しいことだとわたしは思います。
歌は歌を必要とするだれかの心に届けたいと願う心で生まれ、巷を流れてこそ歌であり、歌う心と心がかさなりあった時、はじめてひとりからふたりへ、ふたりから3人へ、3人からみんなへと合唱されるのではないでしょうか。

わたしは1947年に生まれましたので、日本国憲法と同い年ということになります。
1947年という年に大人たちが何を思い、どんな社会を望み、どう生きようとしたのか、ほんとうのところはわたしにはわかりません。
対人恐怖症のわたしは今で言う登校拒否で小学1年の1学期は一日も学校に行けませんでした。学校に行くといじめられたりしましたが、それでも先生はわたしたちに自由と権利の大切さを教えてくれましたし、ひとりふたりと友だちもできました。
ずっとのちに障害者の友だちと出会った時、学校に行くことをこばまれたひともたくさんいたことを知った時、実は学校が学び合う場ではなかったのかも知れないと思いました。
そして、だれかを排除することで成り立つ学校も社会も、ほんとうのところ先生が教えてくれた民主主義が育ってはいなかったのだとも…。
昨年の大震災で犠牲になったひとたちと同じぐらいのたくさんのひとたちが毎年自殺してしまう社会に、国家や社会に都合のいい人材や国際競争力に勝てる人材をつくるための教育が意味のあることなのでしょうか。
子どもの頃に熱中した少年探偵団が追いかけたものが怪人二十面相ではなく、民主主義という見果てぬ夢なのだとしたら、子どもたちが学び合う学校を子どもたちとともにつくりだすことが大人になったわたしたちの役割なのではないかと思うのです。
しばらく、この問題について続けて書いてみたいと思います。

少年探偵団の歌

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