星野哲郎と島津亜矢「昭和の歌人たち・星野哲郎」

26日のBSプレミアム「昭和の歌人たち・星野哲郎」を観ました。
島津亜矢が出演することもあるのですが、以前からこのブログで書いてきましたように、中学3年生の時から寺山修司の影響で星野哲郎と畠山みどりのファンになり、「出世街道」はそれから長い間、わたしの愛唱歌でした。
島津亜矢は「海鳴りの詩(うた)」と「感謝状~母へのメッセージ」を歌いました。船村徹作曲の「海鳴りの詩(うた)」は10周年の記念曲でしたし、2001年の紅白歌合戦で歌ったのが「感謝状~母へのメッセージ」ですから、どちらも彼女の転機となった歌で、いつもリサイタルやコンサートで歌い続けている歌です。
ファン歴の長い方はよく御存じなのでしょうが、彼女はいつから今のような声と歌唱を身につけたのだろうと不思議に思います。CDに収録されているデビュー曲「袴をはいた渡り鳥」や「出世坂」を聴くと、あまりのちがいにびっくりします。14、5才の少女がこぶしやうなりを入れて演歌を歌うこと自体のめずらしさや、その歌のうまさが演歌ファンに喜ばれたことはうなづけますし、聴いているとはまってしまう不思議な魅力があったことも事実でしょう。
しかしながら、それだけでは行き詰まることは星野哲郎も関係スタッフもわかっていたのかもしれません。デビューして5年、1991年のヒット曲「愛染かつらをもう一度」から1995年の「海鳴りの詩(うた)」の間に、意識的なのか自然にそうなったのかわかりませんが、今の島津亜矢へと大きく進化する基礎がつくられたのではないかと思います。
それにしても、わたしは星野哲郎がなぜ島津亜矢のデビュー曲を「袴をはいた渡り鳥」にしたのか、理解に苦しむところがありました。1986年といえばすでにJポップスの台頭が著しく、演歌というジャンルが小さくなっていくばかりで、2002年の氷川きよしの登場という突然変異を除いて新人歌手には苦しい時代になっていました。
なおさら、他の女性歌手が恋の歌を歌っている中にあって、伝統的な股旅の歌詞ではないにしても14、5才の少女に「袴をはいた渡り鳥」はあんまりではないのかと思っていました。しかしながら、今回の放送で、水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」を久しぶりに聴いて、星野哲郎の思いがわかったような気がしました。
1964年、クラウンレコードの創設に参加した星野哲郎の肝いりでデビューした水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」は、クラウンに移籍することになっていた畠山みどりの「袴を履いた渡り鳥」として用意されていたものだったのが、畠山みどりの移籍の話がこわれ、星野哲郎の推薦で急きょ「涙を抱いた渡り鳥」として水前寺清子のデビュー曲になったそうです。
畠山みどり、水前寺清子を育てた星野哲郎にとって島津亜矢はおそらく最後の愛弟子で、この大器を大切に育てて行きたい、育ってほしい、という深い思いからデビュー曲「袴をはいた渡り鳥」をつくったのでしょう。

星野哲郎のゆかりの歌手としてあまり取り上げられませんが、わたしは美樹克彦が大好きでした。美樹克彦もクラウンの創成期に活躍した歌手で、「俺の涙は俺が吹く」、「回転禁止の青春さ」、「花はおそかった」など、星野哲郎は彼のために青春歌謡の名作を生みだしました。

俺の選んだ この道が まわり道だと云うのかい
人の真似して ゆくよりか これでいいのさ このままゆくさ
(「回転禁止の青春さ」)

かわいそうにと なぐさめられて
それで気がすむ 俺じゃない
花がひとりで 散るように
俺の涙は 俺がふく
(「俺の涙は俺がふく」)

「俺の墓場はおいらがさがす」と歌う「出世街道」とともに、これらの歌もまたわたしの決して明るくなかった青春時代の愛唱歌でした。

番組の最後に、北島三郎が「風雪ながれ旅」を歌いました。1980年に発表されたこの名作は、盲目の津軽三味線奏者・高橋竹山の生涯をモデルにしたと言われています。
高橋竹山といえば門付けからはじまり、世界の舞台で活躍した人ですが、かつて渋谷ジャン・ジャンで淡谷のり子と高橋竹山のジョイントコンサートをプロデュースした永六輔が語ったエピソードが有名です。
「竹山さんは幼いころに目が不自由になって三味線を弾くようになる。竹山さんは空き缶をもっていて、その空き缶を門口に置き、そこで三味線を弾くと、「チャリン」とお金を入れてくれる家がある。目が見えませんから「チャリン」と音が入るとそれを懐に収めて、また隣の家に行く。(その門付けで、いつもたくさんのお金を入れてくれた呉服屋の家があり、淡谷のり子はその家の娘だった。)
竹山さんはどれだけつらい思いをしながら外で三味線を弾いたか。吹雪のときも、風の吹いているときでも、とにかくいただかなければ食べられないという状況で、がんばって弾いた。あのつらさを思うと、テレビに出たり、巡業に行けば車で送り迎えもついたり、ましてやパリで、あるいはニューヨークでと世界中で三味線が弾けるなんて夢みたいだ、と言われていました。
海外で津軽三味線を演奏した最初の人が高橋竹山です。
門口にござを敷いて座って三味線を弾いてから世界中への演奏旅行まで、音楽の歴史でいうと実は何百年もかかることを、彼の一生のなかで全部やってしまっているんです。」
(永六輔・「上を向いて歩こう 年をとると面白い」から)

星野哲郎は高橋竹山の自伝を読んで感動し、この歌をつくったのですが、星野哲郎らしいエピソードだと思います。寺山修司が「私は〈詩の底辺〉ということばを使うなら星野哲郎こそ最も重要な戦後詩人のひとりだと考えるのである。しかも、彼は活字を捨てて他人の肉体をメディアに選んだのだ」と讃えた星野哲郎だからこそ、門付けから生まれ、風雪の中を流れる竹山の三味線に、みずからの詩のルーツを見つけたのでしょう。
この大地や荒野、巷や路地から生まれ、日々の暮らしや人生とともに流れる歌、それこそが星野哲郎の歌だと思います。そして、我らが島津亜矢は星野哲郎の最後の使徒として、その天使のような声と肉感的な語りで、恩師が用意した歌の道をまっすぐ進んでいくことでしょう。
「昭和の歌人たち・星野哲郎」を観て、あらためてその思いを強く持ちました。

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