有意義だった「憲法カフェ・能勢」

4月29日の「憲法カフエ・能勢」は参加者こそ20人ぐらいでしたが、普段はとっつきが悪い憲法についてクイズをしたりして、柔らかい雰囲気ができたことから、議論するところまではなかなかいかなかっものの、参加者ひとりひとりが思っていることを話すことができました。 わたしはこういう話を筋道立ててしゃべろうとすると自分でも何を言っているのかわからなくなり、今回も悲しい結果になってしまいました。それでも、今の世の中の動きに不安や怖さを感じたり、何か自分ができることをはじめたいと思うのはわたしばかりではなく、参加された人たちの率直な感想でした。 今回は特に「公共の福祉」に話がおよび、自民党の憲法草案ではこの部分が「公益及び公の秩序」となっていて、それはまったくちがうものだというところから話が進みました。 憲法は国民ひとりひとり個人としての自由と権利、人権を守るために、国家や権力者の暴走を縛るためのものであることを学びました。それを立憲主義というのですが、自民党案の「公益および公の秩序」とは国益がかならずしも国民の利益ではない時、国益を優先し、個人の自由や権利、人権を制限できる国家主義に道を開くものだということです。 それでは、個人の自由と権利、人権を制限できるとされる「公共の福祉」とは何なのかと、話は憲法の核心に迫って行きました。 そして、先の戦争を引き起こしてしまった覇権主義を反省し、国民への弾圧をふせぐために個人の自由や権利、人権を最大限に保障しようとする憲法は、それでももしそれを制限しなければならないとすれば、それは他人の自由と権利、人権をも最大限に保障しなければならない時で、たとえば表現の自由が他者のプライバシーを侵害する場合、双方の権利と自由と人権を認めながら折り合いをつける作業そのものが「公共の福祉」だと、わたしは思いました。 わたしは長い間、障害者の人権にかかわる活動を続けてきたことから、民主主義が少数の意見を尊重しながらも多数決で成り立つことそのものに、疑念を持つことも多くありました。わたしたちが訴えてきたことは、民主主義の担い手、社会の構成員として、障害者の人権が保障されていないということでした。 たとえば憲法が国民の義務と規定する3大義務として、普通教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務がありますが、わたしたちは障害者が地域の学校で普通に教育を受ける権利を奪われてきたこと、働きたいと意志をもっていても就労の場から拒まれてしまうこと、そのために税を納めることができず、「福祉」の対象として親元や施設での暮らしを強いられることなど、3つの義務を果たすための権利や自由がそもそも保障されていないことを訴えてきましたが、まだまだ道半ばというところです。 それはさておき、「公共の福祉」にかぎらず、憲法で使われている言葉はとっつきが悪く、講師の弁護士さんがおっしゃったように日頃は憲法のことなど考えてはくらしていないのですが、こういう場でこの言葉の意味は何?というように考えると、わたしたちの暮らしは憲法によって守られていることが実感できました。 そして、憲法が制定されて以来70年近くの間、この憲法があったからこそ戦争に巻き込まれずにやってこられたことも確認できました。憲法9条のおかげで世界の紛争の地で「日本は戦争をしない国」と認められてきたことをその現場で活動する数多くの日本人が実感していると聞きますが、最近の「集団的自衛権」への方向が伝えられる中、「日本人も武力を持つことになった」と意識され始めたとも聞きます。 能勢の暮らしの中で、たった3時間ほどの時間でしたが、憲法を中心に世の中のさまざまなことについて考える機会を持てたことはほんとうによかったと思います。 これからもこういう機会を少しでも増やしていき、能勢から考える未来のありかたを、少しずつ増えてきた仲間たちと考えていきたいと思いました。 前の記事に書きましたように、今日5月1日のTBS「ニュース23」の憲法特集の一部として放送される予定です。

看板作りを担当したわたしは、ゆるやかな集まりで、名前にもカフエがついているので、そのままお店のような看板を作りました。おおむね好評でした。プレゼンテーターの遠地弁護士は、さわやかな雰囲気で、落ち着いた話し方で参加者をすぐになじませ、難しい問題をやさしく説明しました。実はパワーポイントを使うはずが、プロジェクターとつなぐ線がなく、とても苦労されたと思います。遠地さん、ありがとうございました。

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