うれしい夜でした。コジカナツルのライブ

2月1日の夜、「コジカナツル」のライブに行きました。
一年ぶりのライブで、実は2DAYSで、前日にはFridPrideのsihoがゲスト共演しました。
どちらも行きたかったのですがかなわず、2日目に行くことにしました。大阪の地下鉄四つ橋線西梅田駅近くのホテルビスタプレミオ堂島の一階にあるライブハウス・Mister Kelly’s(ミスターケリーズ)でした。ここ最近はここでのライブが多く、同じ大阪に住むわたしにはありがたい場所です。
昨年はひさしぶりのライブだったので、「お帰りなさい」というブログを書きましたが、今回のライブはどう書けばいいのか、正直戸惑ってしまいます。
とにかく、この日は特に鶴谷智生のドラムスがさく裂しました。

スタートがややおくれて3人が現れ、小島良喜がひとつの鍵盤をたたいた瞬間、空気が一変し、今夜の小島良喜は少しちがうなと感じました。
以前にも書きましたように、わたしは実は音楽のことをまったく知らず、今ずっと聴いているのも島津亜矢ばかりで、そり以外の音楽をあまり聴いていません。ジャズもブルースもクラシックも、専門的な常識はほとんど知らないわたしが、この3人について語るなど無茶もいいところなのだと自分でも思っています。
それでも一年に何度もないのですが、小島良喜のライブにはいつも特別な思いで聴きに行き、特別な思いをもらって帰ってきます。
世界には無数のピアニストがいて無数の音楽が世界中で同時に演奏されていることでしょうが、いまわたしの立っているこの場所を一瞬にして非日常の荒海に変え、わたしの心を世界の果てにまで連れ去ってしまう小島良喜のライブを体感すると、姜尚中が「続・悩む力」で書いている「二度生まれ」どころではなく、何度も何度も生まれ変われる気がするのです。
そして、小島良喜が88の鍵盤のうちのひとつに指を置くと最初の音が聴こえ、かすかな余韻を残して消えるのもつかのま、一気にボルテージを上げ、金沢英明と鶴谷智生を挑発し、あっというまにわたしを音の洪水におぼれさせてしまう…。そんなふうに始まるライブになれてしまったからか、この日の小島良喜のファーストタッチに今までと違った感じを持ったのでした。
単なる気のせいだったのかも知れません。けれどもわたしにはいい意味で少しゆるくなったというか、茶色っぽくなったというか、ほこりっぽくなったというか、うまく言えないのですが、より優しくなったように感じたのでした。
「今日のピアノはあまりとばさないな」と思っていたら、いつもは小島良喜の速球を見事に受けとめる鶴谷智生がすごかった。受けてあまりあるパッションで投げ返し、小島良喜がそれを受け止める、そこに金沢英明のベースが荒波をわたるジョン・シルバーのように舵をとる、という感じで、すでに最初の一曲でエネルギーを使い果たしてしまわないかと心配しました。
しかしながら、そんな心配は無用で、その後も激しい演奏がつづきました。彼らの音楽は最初スローで入っても演奏しているうちにどんどんエスカレートしていき、最後にはお互いがお互いを高めあいながら行くところまで行ってしまうので、聴いている方も時々あきれてしまうのです。
そこがまた他のアーティストだけではなく、彼ら自身の別のユニットでも味わえない「コジカナツル」の魅力で、それを経験してしまうと麻薬のように体の皮膚や筋肉や血管にまで浸みこんでしまい、もっと音楽をと心が飢え、それがまた彼らをよりラジカルにしてしまいます。
3人ともプロデューサーとしても一流なので、たくみにソフトランディングして耳触りのいいこじんまりした音楽にまとめることは簡単なことなのでしょうが、そんなことを一切せず、ごく簡単な取り決めだけで後は成り行きまかせ、その時の演奏がつくりだす音楽が走り出す方向へと身をゆだねることが、たのしくて仕方ないのだと思います。
ですから、いつも同じ曲を演奏していてもまったくちがう音楽になり、わたしたちはいつも新しい音楽が生まれる瞬間に立ち会える幸運を手にすることができるのです。
それにしてもこの日の鶴谷智生はほんとうにすごかった。たまたま座った席が彼のそばで、ドラムスが大変な「重労働」であることもあらためて知りました。もともとリズムが正確で貯めもノリも魅力的な演奏をするひとで、わたしは遅ればせながらドラムスがリズムだけではなく歌を歌い、語ることができることを鶴谷智生の演奏で知りました。
以前、京都のRAGでのライブの時、そばにある柱までスティックでたたいていたことがありましたが、この日の演奏もとどまることを知らず、どこまでもどこまでも突き抜けていくので、あの小島良喜でさえしばらく演奏を止めて、鶴谷智生の熱演を時にはにやにやしながら、時には呆れ顔で見つめることがしばしばありました。
鶴谷智生も激しく演奏しながら、「休むな」と言い、小島良喜が「年がちがう」(?)とかなんとか言って会場が大笑いするシーンもありました。
この日の3人の演奏の折り合いがついていたのか、それとも思いもかけず鶴谷智生が先に行ってしまって収集がつかなくなったのか知る由もないのですが、そのおかげでひさしぶりにめったに味わえない音楽を楽しむことができました。
この日の小島良喜のピアノは痛くなかったです。

「コジカナツル」はわたしの少ない音楽体験を別にしても、日本でもっともスリリングでハッピーで勇気をくれる最高の音楽を届けてくれる稀有のユニットで、すでに2002年から10年以上も続けてくれているのですが、いつやめてしまってもう聴けなくなってしまうかと心配してしまうこともあります。
それだけ正直で、アナーキーでニュートラルで、自分たちのやりたいことをやりたい方法でやることしかコンセンサスを持たない過激な音楽なのだと思います。

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