おかえりなさい。「コジカナツル」

 先週の金曜日、関西では久しぶりの「コジカナツル」のライブがあり、友人たちと7人で聴きに行きました。「コジカナツル」はピアノの小島良喜、ベースの金澤英明、ドラムスの鶴谷智生のトリオです。
 井上陽水、近藤房之助、Char、桑名正博といったアーティストが厚い信頼を寄せるピアニスト・小島良喜。
 阿川泰子、渡辺貞夫、日野皓正などのグループで活躍後、現在、自己のトリオをはじめ数々の名ライブを生みだす日本屈指の最強ベーシスト・金澤英明。
 今井美樹、布袋寅泰、ポルノグラフティー、福山雅治から槙原敬之、いきものがかり、さらには森進一、坂本冬美まで幅広いジャンルのアーティストのレコーディング、ツアー・サポート等でひっぱりだこの人気ドラマー・鶴谷智生。
 第一線で活躍するこの3人が2002年から活動をはじめたバンド「コジカナツル」はジャズ、ブルース、ロックなどジャンルの枠にとらわれず、これこそ「音を楽しむ」音楽にふさわしい意外性と創造性にあふれ、ハッピーで自由で、そして官能的な演奏で聴く者を魅了してきました。
 わたしは音楽が好きなだけで音楽の専門的知識はまったくないのですが、彼らはそれぞれの楽器を通しておしゃべりをしたり、四角いリングの中で相手の様子をうかがい、カウンタパンチを出しあったりしていて、それらが折り重なって押し寄せる音の洪水にわたしはいつも圧倒されてしまうのでした。

 わたしが「コジカナツル」の音楽と出会ったのは2003年の1月、京都の「RAG」でのライブがはじめてだったと思います。前にも書きましたが、小島良喜とは豊能障害者労働センターが90年から94年まで毎年開催した桑名正博のライブで知り合いました。
 たまたま2002年、近藤房之助とのライブが大阪であり、かれこれ10年たとうと言うのにわたしたちのことをおぼえてくれていて、「いま、トリオでやってるからまたチャリティやるよ」と言ってくれました。
 2003年の夏、わたしたちは「コジカナツル」コンサートをしたのですが、それについては一部前に書いていますが、今度またまとめて書いてみたいと思います。

 さて、この日のライブですが、関西のわたしたちにとっても、そしてもしかすると彼らにとっても「おかえりなさい」のライブだったのではないかと思います。
 会場は大阪の地下鉄四つ橋線西梅田駅より少し南といった感じでしょうか、ホテルビスタプレミオ堂島の一階にあるライブハウス・Mister Kelly’s(ミスターケリーズ)で、チケットを予約していたからいいものの、30分前についたのですがすでに満員でした。
 わたしたちと同じように、「コジカナツル」の禁断症状にかかっていたお客さんたちの熱気にあふれる中、彼らは相変わらずの自然体でステージに立ちました。
 全然緊張感のないMCの後、小島良喜の指が静かにピアノの鍵盤に下ろされ、演奏が始まると、いままで会場の空間にかくれていた音楽の波粒が集められ、豊穣な音楽の波が押し寄せてきました。
 彼らのライブではいつも、いままでにない、どこにもない「はじめての音楽」を彼らがつくりあげて行く瞬間に立ち会うことができるのですが、それはあたかも人間の歴史が音楽を発明した瞬間にまでわたしたちを連れて行ってくれるような、不思議な感覚にとらわれます。
 人間は言葉を発明するずっと前に、木や石を叩いたり肉声から生まれる音、暮らしの中で自然や別の生き物が発する音たちを受けとめた時に、音楽を発明したのだと思います。
 「コジカナツル」の音楽はそのことを感動とともにおしえてくれるのです。
 ひとは武器を持つこともできますが、楽器を持つこともできます。傷つけあうこともできますが、わかりあうこともできます。そしてひとはパンなしで生きることができませんが、愛や夢や生きがいなくしてもまた生きていけないのだとしたら、音楽はその誕生から時代をこえ、ひとからひとへとそれを必要とするひとの心に届くことでもうひとつの歴史を作ってきたのではないでしょうか。
 ジャズやR&B、ロックが海を渡り、歌謡曲と浪曲しか知らなかったわたしの心に届いたのも、単にラジオやテレビやインターネットなどのツールがあるからではなく、海の向こうでつながりたいと必死に願う心があったからなのだと思うのです。

 ガード下、神社の裏、こげ茶の電柱と裸電球、一面の田んぼ、あぜ道の向こうの頼りない窓の光、髪振り乱してうどんの湯切りをする母、向かいの牛乳屋からのもらい水を積んだリヤカー、「キュッ」という自転車のブレーキの音とともに血も流さず横たわった男の死体、毎日夜中にみかん水を飲みにくる女の真っ赤な口紅、従兄が運転手をしていた黒いキャデラック……。
 私の子ども時代をふちどる原風景はどんなに近代化されてもこのアスファルトの下に広がっていて、その愛おしくも懐かしい風景はいま、「コジカナツル」がいざなう音楽の海をさかのぼり、チャーリー・パットン、サン・ハウス、ロバート・ジョンスンなどのブルースを生み、育てたアメリカのはるか荒野へとつながっていくのでした。

 今回のライブは、かれらにとっても特別にハッピーなライブだったのではないでしょうか。3人とも多忙で、なおさらそんなに実入りが良いようには思えないライブハウスでの演奏は、けれども彼らがもっとも自分らしくなれる大切な時間なのだと思います。まるで腕白小僧がはしゃぐように音楽を楽しみ、楽器でおしゃべりし、笑う3人を見ていると、ほんとうに、「おかえりなさい」と思いました。
 いつも演奏している曲が多くあるのですが、毎回ちがった演奏で、長い長い叙事詩のようにこれからもどんどん変わりながらわたしたちをどこに連れて行ってくれるのか、次のライブが待ち遠しくなるすてきな時間でした。

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