世界が沈黙する夜・小島良喜とイラク戦争と武満徹・PEACE MARKETへの道2

2003年4月 豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載記事
(わたしはこのブログを始める前の文章の一人称をすべて「ぼく」にしていました。)

3月31日、半年ぶりに小島良喜・金澤英明・鶴谷智生のライブに行った。京都のライブハウス「RAG」は、去年の7月にぼくたちが主催した「コジカナツル」ライブでもお世話になった老舗のライブハウスだ。
半年前のライブは鬼気迫るものがあった。3人ともぎりぎりのところまで自分を追い詰めるような気迫に満ち足りていて、こんな音楽はもう2度と聴けないのではないかと感じたものだった。
だが今回のライブではリラックスして彼らの音楽を聴くことができた。それはなにも彼らがもう緊張感をなくしてしまったからではない。
むしろ今回の方がそのはげしさは増していて演奏が終わった後、小島良喜がぼくに「どこまで必死にやってしまうねんと3人とも思ってる」と言ったほどなのだ。
音楽は今という時間のキャンバスに「自由」という絵筆で形を加え色を塗り、しあわせな風景を描いた。そして聴くひとの数だけの孤独な心をくぐりぬけ、夜が明けたらぼくたちを待っているはずの約束の地にいっしょに行こうと、ぼくたちに語りつづけたのだった。
突然ぼくは悲しくなり、涙があふれた。同じ夜に、このライブハウスにあふれる至福の音楽と、遠いイラクの地で死んでいく無数のいのちたちが最後に聴いたはずの爆音と地鳴りと悲鳴とが共存しているのだ。
それが現実なら、ぼくたち人間はいつまでこんなことをくりかえすのだろう。そして思った。米英軍、イラク軍を問わず銃をかまえる兵士たち、爆弾を落とそうする兵士たち、長い夜のカーテンに身をかくす市民たち、彼女たち彼たちは今どんな歌を聴いているのだろう、どんな歌を歌っているのだろう。
そして皮肉にもぼくたちは百年も前にアメリカの綿花畑で生まれ、奴隷解放されてからも貧しく困難な暮らしと差別を押しつけられて来た無数の黒人たちの心に流れつづけ、海を渡ってやってきたブルーズをいま聴いている。
ライブの後、深夜の京都を川づたいに歩いた。夜の光にはじらむように桜の花が匂っていた。小島良喜のピアノがまだ心に響いていた。そしてぼくはもう死んでしまった二人の人物のことを思い出していた。
ひとりは妻の父。彼はとても柔和温厚な人柄で、クラシックやシャンソンなど、音楽好きな人だった。
彼は戦争中、衛生兵として出兵していた。ある日のこと、ひとりの人間を銃殺するため、彼を含む数人が呼ばれた。
縛り付けられ、目隠しされた人間の前で数人が銃を構えた。そして一斉に銃を撃った。
一つの村からもう一つの村へ、雨の日も風の夜も、広い大陸のぬかるみをただひたすら行軍しながら、彼は心の中でずっとシューベルトのアベマリアを歌っていた。
もうひとりは作曲家・武満徹。高校生の時に有名な「ノヴェンバー・ステップス」を聴いた覚えはあるが、実は彼の作曲した現代音楽はほとんど知らない。
高校を卒業してまもなく、ラジオ番組で聴いた「死んだ男の残したものは」が谷川俊太郎作詞・武満徹作曲と知った。
「死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球 他にはなにも残せなかった 平和ひとつ残せなかった」という詩がシンプルな旋律に染み込んでいく。
それ以後ずっとこの歌はぼくの愛唱歌になっている。
昨年、香川の「コスモスの家」と「ゆめ・風基金」が主催した「小室等コンサート」の時、ぼくは幸運にも小室等さんから武満徹のことをいっぱい聞く機会に恵まれた。
小室さんは武満徹の音楽と心を伝えていきたいと考え、「武満徹ソングブック」というCDを出していて、彼の作曲したポピュラー音楽を歌いつづけている。
「死んだ男の残したものは」も小室さんの最近のコンサートでは必ず聴くことができる。
小島良喜のライブ、イラク戦争、妻の父と心を運ばせ、ぼくは武満徹が1971年10月の朝日新聞に5回連載で書いたエッセイを切り抜いていたことを思い出した。
そのエッセイの中で、彼は中学生の時に勤労動員で陸軍基地で働いていた時のことを書いていた。ひとりの見習士官が手回しの蓄音機で一枚のレコードをかけた。それは彼にとって決定的な歌との出会いになった。
「歌の形は見ることができない。私たちは、それを愛する人たちのかたちとしてしか確かめようがない。その歌は時と空間を越えた十分なやさしさで私をつつんだ。後になって、それがジョセフィン・ベーカーのうたった有名なシャンソンであることを知った。」
「私はそれと出会ったことで、もう昨日の私ではなかったし、その歌も姿を変えてしまったのだ。」
そして、別の下士官がその歌を敵性音楽と言った時、彼は国家という名で音楽にまで敵、味方の区別をつけることに憤りを感じたという。彼はこのエッセイの中で、「敗戦」によって得た唯一のものは正しく「他者」を知る権利だったと言い、大国のエゴイズムのために犠牲をしいられている小国家に住む無数の他者との愛と無縁の場所で、わたしたちの個別の愛はないと書いた。
そして、国家がいつもその「他者」をゆがめてきたのだとも。
やっと見つけたその記事を読み、ぼくが若い時になぜこの記事を切り抜いていたのか、そしていま、そのことを思い出したのかがわかった。
ふたつの歌のエピソードの中に、ぼくはせつない真実を受け取る。
戦争はある日突然はじまるのではないのだ。国家が個人の自由と人権をおびやかし、侵すことをぼくたちが許してしまうところからはじまるのだ。
昔もいまも、どこの国でも、国家が自国の国民を殺してきた歴史がそのことを教えてくれる。
アメリカの圧倒的な軍事力は、それを行使することによってフセインの圧政をたしかに終わらせることができた。だが、ぼくたちはますます「他者」を喪失しつづける不幸を大きくしているのだと思う。

「国家がその権力において個人の<生>を奪いつづけるかぎり、<音楽>が真に響くことはない。私たちは<世界>がすべて沈黙してしまう夜を、いかにしても避けなければならない。」(武満 徹)
2003年4月

コジカナヤマ(島英夫). Truth In Your Eyes .Live at ミスターケリーズ 2014.1/28
小島良喜(Pf) ,金澤英明(B) ,山木秀夫(Ds)

マリア・カラス「シューベルトのアベマリア」

武満 徹「死んだ男の残したものは・・」 林光編曲 混声合唱

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