ありがとう!桑名正博さん。「コンサート風の華」1

10月26日、桑名正博さんが亡くなられたと聞き、ほんとうになんといっていいか、言葉が見つかりません。
謹んでお悔やみ申し上げます。

桑名正博さんは1990年から93年までの連続4回と、豊能障害者労働センター15周年記念の年だった1997年とあわせて合計5回、「桑名正博コンサート・風の華」を開いてくださり、助けてくださいました。桑名正博さんとの出会いは豊能障害者労働センターにとって本当に特別なもので、大恩人でした。
昨年、大阪での小島良喜さんとのライブの時にお話しする機会を得たところ、わたしたちのことをよくおぼえていてくださり、「またやりたいね」と言ってくださったことがうれしくて、豊能障害者労働センター30周年にあわせて何かできないかと思っていました。
先日、豊能障害者労働センターの30周年パーティーがあり、ご多忙だからご出席はかなわないだろうが案内状を送る予定でしたが、入院の知らせを聞き、断念せざるを得ませんでした。当日、桑名さんのライブの模様もスライドにして、元気になられることをみんなで願ったところでした。
わたしはこんな形で豊能障害者労働センターが開いた「桑名正博コンサート・風の華」のことを語ることになるとは思いもしませんでしたが、桑名正博さんへの哀悼と感謝の気持ちをこめて、当時の豊能障害者労働センター機関紙「積木」に掲載した文章とあわせて、何回かに渡りここに記録しておきたいと思います。
このシリーズはかなり長くなりますので、間に別の記事を書くこともありますが、ご容赦ください。

1990年4月27日(金)
1991年6月7日(金)
1992年6月7日(日)
1993年7月18日(日)
そして1997年7月20日(日)

5回のコンサートの中で桑名正博さんは小島良喜、妹尾隆一郎、河内淳貴、鬼頭径五、原田喧太、田辺モット、岡本郭男、南部昌江、HONZI、UNTITLED参加ミュージシャンの方々に声をかけてくださり、毎回ちがった構成でコンサートをプロデュースしてくださいました。また、このコンサートを呼びかけてくださった渋谷天外さん、ミヤコ蝶々さん、もんたよしのりさんも駆けつけてくださいました。
また、このコンサートのことを桑名さんがラジオ番組で言ってくださり、番組のスポンサーだった「フレンドリー」から自動車購入費として50万円と食事券50万円をいただいたことや、コンサートに来てくれたお客さんが勤めておられるファンシーグッズの製造販売会社から倉庫ひとつ分の商品をくださり、長い間豊能障害者労働センターのお店で販売できたこと、豊能障害者労働センターのカレンダーを桑名さんのファンの方々が買ってくださったことなど、たくさんの方々から数え切れないほどの応援をいただきました。
さらには、このコンサートがきっかけで、わたしたちの友人グループをはじめとして多くの障害者のグループが桑名さんのコンサートを開くことができました。
もちろん、このコンサートの収益はその頃の豊能障害者労働センターにとってどれだけ助かったことでしょう。当時、豊能障害者労働センターに対する助成金はほとんどなく、このコンサートの収益のみが、日常の赤字を埋める命綱だったのです。
スーパースターの桑名正博さんと豊能障害者労働センターの出会いは、ほんとうに奇跡としか言いようがないものでした。社会福祉法人はおろか、今ならほとんどの友人グループがなっているNPO法人でもなく(障害者を支援するだけならNPO法人でいいのですが、障害者スタッフ全員が主体的に運営を担い、働くことで給料を得て、地域の人々と共に生きることをめざす豊能障害者労働センターの活動はNPO法人の枠組みでさえ収まりきれないところがあるのです)、任意団体でしかない豊能障害者労働センターを支援することは実はとても勇気のいることだったのを、わたしたちはそれから後のさまざまなイベントや事業で知ることになります。
寄付金ひとつをとっても、今でも認定NPO法人や社会福祉法人など、社会的に認められている団体には企業も個人も寄付が集まりますが、何者かもよくわからない一任意団体を支援することはまずありません。
もしそういうことがあるとすれば、それはそのグループにかかわっている人が個人的に働きかけをし、友人の方々が支援の手を差し伸べる場合だけです。わたしたちの場合もまさしくそうで、そのきっかけをつくってくれたのは松竹新喜劇の座長である渋谷天外さんでした。

それは一本の電話からはじまった。

その前の年のいつだったか忘れてしまいましたが、わたしたちのもとに、兵庫県川西市萩原台のパン屋さんが月に一度の日曜日、店先の広場を開放するので移動販売をしないかという話が流れてきました。その話は川西市から池田市、箕面市の障害者団体に次々と持ち込まれたのですがどこも手を上げず。最後の最後に豊能障害者労働センターにたどり着いたのでした。
そのころ、豊能障害者労働センターは年に2回、箕面市内の学校、保育所、教会などの協力を得て衣料品の移動販売をして、日常のお店だけでは食べていけないところを補填していました。
販売の場がふえることはありがたいのですが、なにぶんにも活動する地域からは離れすぎていて宣伝するのがむずかしく、パン屋さんのお客さんだけを頼りにするのも無理があると思えたことと、日曜日だということもあり、どうしようかと話し合いました。
しかしながら、せっかくのパン屋さんの好意を無駄にしたくないと言う意見が強くなり、事前に付近の住宅にチラシを入れることとし、パン屋さんにお目にかかり、移動販売をさせていただくことになりました。
そのパン屋さんが、なんと現在の渋谷天外さん(その当時は渋谷天笑さん)のお兄さんで、わたしぐらいの年齢までなら、かつて一世を風靡した藤山寛実とともに松竹新喜劇を支えた役者兼座付き作家・二代目渋谷天外の息子さんだったのです。お話によると、お父さんが晩年障害を持っていたことから、障害者の問題が気になっていて、何か協力できたらと思われたそうです。
移動販売には山本貴士さんと藤田祐子さんがいつも行っていたのですが、そこでいつも日曜日には帰ってこられる弟の天外さんが山本さんのことが気に入り、何かと話をするようになりました。
ある日の夕方、後片付けをした後、いつものように豊能障害者労働センターの話をしているうちに財政状態の話になり、世間からは考えられない少ない給料がよく遅配になってしまう豊能障害者労働センターの赤貧状態を聞いてくれた天外さんが、「ぼくの友だちのマサやんにコンサートしてもらったらどうやろ、今すぐ電話したるわ」と言いました。
「マサやん、あんな、ぼくの知り合いの障害者団体がこまってんねん、力貸したってくれへんか」。
その一本の電話だけで、ただ天外さんが頼んでるというだけで、桑名正博さんは「ええよ」と言ってくださったのでした。
わたしはそのとき、ほんとうにびっくりしました。「なんぼ友だちの天外さんの頼みでも、豊能障害者労働センターがどんな団体か聞くんとちゃう? そんなお願いごと、桑名さんならいっぱい舞い込むはずやろから」。
もちろん、出会いは偶然でありながら、どこか運命的に思える何か特別な磁力が働くときがあるのでしょう。ロック・ミュージシャンである桑名さんがもともと持っている、形や権威にとらわれない自由な感性が、福祉の枠の中に納まらないアナーキーな夢と純情を併せ持つ豊能障害者労働センターという存在を認めてくれたのだと思います。
とにもかくにも、信じられないほどあっさりと、桑名さんが箕面に来てくださることになったのでした。(つづく)

箕面のライブでも歌ってくれました。桑名正博「月のあかり」

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