松井しのぶと「地球へのピクニック」

わたしが高校生だった頃、美術部に入っていたこともあって、音楽や演劇よりも美術に関心があり、よく京都の美術館に現代美術の作品展を観に行ったものでした。
最近はもうほとんど美術には関心がないといっていいのですが、それでも年に1度か2度、美術館の壁に掛けられたタブローといわれる絵をながめたり、時には床にころがっているオブジェ、最近は映像表現など、ややとっつきにくい展覧会にも行ったりします。
そこに共通しているのはとても静かでゆっくりとした時間が、流れるというよりは折りたたまれているという感じでしょうか、いつのまにか高校生の時のようなワクワク感を持てなくなっていることに気づきます。
けれども、政治から芸能文化まで、世の中全体が気短でスピードが求められ、あれよあれよという間もなく扇情的にひとつの方向へと流されていくような気味悪さ、カリスマやヒーローやリーダーを求める昨今の風潮の中にいると、かえって美術の静かな空間と時間にほっとするのです。

松井しのぶさんのイラストを見ていると、ちょっと恥ずかしくなるようなかわいらしさの奥にもうひとつの扉があって、その扉を開けるとやや薄明るく、たとえば眠れぬ夜を明かした部屋に月明かりの名残りと朝の光が溶け合う、静かな空間があります。そしてそのぼんやりした逆光を浴びたシルエット、それは少女であったり少年であったり、また老女であったり老男であったり、そして何者でもないもの・いのちの化身・のようなものがその空間のどこかにこっそりと隠れています。
彼女が描くイラストの風景にたどりつくまでのいのちのリレーと、その風景もまた終の棲家ではありえず、その風景の後にどんな世界が現れるのかわからない不安と希望が、その何者かによって次のいのちのリレーへと受け継がれていく・・・。
そこには儚さや移ろいやすさを受け止めた後に、ささやかでもいい、誇りまみれでもいいから、暴力的とさえ思える華やかなエンターテイメントとは無縁な願いや無数の希望がぎっしりと詰まっているようなのです。人間の歴史はたしかに武力と権力によってつくられたり壊されたりしてきたのかもしれないけれど、この地球に生まれ生き、死んでいった無数のいのちたちの夢や願いによって育てられ、見守られてきたのだと思うのです。

わたしたちは、障害のあるひともないひとも老いも若きも、男も女も大人も子供も、だれもが暮らしやすい共に生きる社会を夢みてきました。そしてその夢はこの星の海も山も川も大地も、そしてこの星に抱かれ、この星で生きるかけがえのないいのちが共に生きる夢と同じなのだと気付いたわたしたちは、松井しのぶさんのイラストによるこのカレンダーを「やさしいちきゅうものがたり」と名付けました。
2006年版からすでに8作目となるこのカレンダーですが、2009年版からでしょうか、彼女のイラストに「ピック」と「ニック」というキャラクターが生まれました。ピックとニックはよくあるキャラクターとちがって、よく見ないと見つけられないほど小さく描かれていて、ほとんど目立ちません。「ピクニック」から命名された彼女たち、彼たちはこの星に生きるすべてのいのちたちを守り育てる小さな妖精のようでもあり、松井しのぶさんのこの星の未来にかける願いや祈りや夢の語り部のような存在でもあるのでしょう。
わたしたち人間もまたこの星に抱かれ、この星のほんの一部を間借りして生きる住人であることを、米粒のように小さく描かれる「ピック」「と「ニック」に教えてもらっているような気がして、ずいぶん前に読み、感動した谷川俊太郎の詩・「地球へのピクニック」を思い出しました。

ここで一緒になわとびをしよう ここで
ここで一緒におにぎりを食べよう
ここでおまえを愛そう
おまえの眼は空の青をうつし
おまえの背中はよもぎの緑に染まるだろう
ここで一緒に星座の名前を覚えよう

ここにいてすべての遠いものを夢見よう
ここで潮干狩りをしよう
あけがたの空の海から
小さなひとでをとって来よう
朝御飯にはそれを捨て
夜をひくにまかせよう

ここでただいまを言い続けよう
おまえがお帰りなさいをくり返す間
ここへ何度でも帰って来よう
ここで熱いお茶を飲もう
ここで一緒に坐ってしばらくの間
涼しい風に吹かれよう
谷川俊太郎「地球へのピクニック」

合唱「地球へのピクニック」詩・谷川俊太郎 曲・三善晃
2012三善晃を唄う会アンコール

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