学校が調教の場ではなく、学びあう場でありますように。森友学園問題2

ほぼ毎日、5月14日のピースマーケットスペシャルコンサート「友部正人」の情報宣伝と、チケット預けのお願いに明け暮れていますが、その間にも3月11日、森友学園問題の集会に足を運びました。
豊中市曽根駅の近くに旧市民会館の建て替えでできたばかりの豊中市立芸術文化センターの多目的室で開かれたこの集会は瑞穂の国小学院問題を考える会が主催したもので、この問題が明るみになるきっかけとなった豊中市会議員・木村貢さんの報告と、「日本会議の研究」の著者・菅野完さんの講演という時の人おふたりの話が聴けるということで、わたしも友人と会場に足を運びました。
この集会が企画された時からあれよあれよという間に次々と新しい事実が発覚し、国会での野党の追及とマスコミ報道があふれる渦中で、しかもこの日に森友学園の籠池理事長が小学校の申請を取り下げ、理事長をやめるというニュースも伝えられたこともあり、早くに会場に向かったのですがすでに会場は満席で、わたしもふくめて50人以上の人が入れませんでした。
話が聴けなかったのは残念でしたがこの問題がたくさんの人々の関心を呼び、今の政権の危うい暗闇が明るみになり、政権の暴走を止めるきっかけになればいいと思います。
あの日からますます新事実が出て、ついに安倍首相が森友学園に100万円の寄付をしたという籠池氏の発言によって、それまでかたくなに籠池氏の証人喚問を拒絶していた自民党も積極的に証人喚問を求め、誰が真実を語り誰が嘘をついているのか物事の決着をつけようというところまで来ています。
ただ、問題の本質は国の当初の鑑定価格9億5600万円より大幅に安い1億3400万円で売却されたという許しがたい事実をはじめ、国には過大な建築費で建築への助成金を高くし、大阪府へは認可を得やすいように過小な建築費で財政的な懸念を払おうとしたことなどの事実が、森友学園の働きかけがあるたびに実現したことに政治家の関与があったのか、もしなかったとしても安倍首相夫妻や稲田防衛大臣など国家の最高権力者が関わっている法人への配慮、忖度が働いたのかが問われています。
首相からの100万円の寄付行為があったとしても、また森友学園とのかかわりに法的な問題がなかったとしてもそのことを利用した寄付集めや入園、入学の勧誘があったという事実に道義的な責任があることは間違いないわけで、だからこそそのかかわりや寄付行為を否定せざるを得ないのでしょう。
安倍首相も稲田防衛大臣も自民党も、証人喚問で籠池氏の嘘や虚言癖(?)を認めさせて森友学園とのかかわりを否定することで幕引きを狙っているのでしょうが、あくまでも本質は8億円も値引きして特定の法人に土地を売り渡した信じられないことがなぜ起きたのかを明らかにすることだと思います。

それはそれとして、わたしが心配なのは多くの方が指摘されているように、森友学園が運営する塚本幼稚園での教育勅語の暗唱などいわゆる右翼的な教育を受けている子どもたちの未来です。
かつてある思想家は「近代国家にとって学校と刑務所はまったく同じである」と言いました。近代以前は処刑・刑罰してきた罪人を、近代国家は刑務所で調教することで国家に従順な人間に作り変えるようになり、その考え方を子どもたちにも適用し、学校がつくられたというのです。
こんなことを言えば、子どもたちの未来をより良いものにするために一生懸命の先生など、教育に従事されている真摯な方々に叱られるでしょうが、実際のところ学校がほんとうに子どもたちの学びあう場として存在することはまれで、国家による調教という教育システムが子どもたちを管理していることもまた事実だと思うのです。
また、刑務所の例は極端かもしれないですが、多かれ少なかれ大人もまた国家の管理システムの中でしか「与えられた自由」を獲得できていないのかも知れません。
わたしはどもりの対人恐怖症で、集団の中で一つのことをみんなと同じようにする社会性がなく、泣きわめいて幼稚園に行くのを拒否しただけでなく、小学校の1年は3学期しか行かず、2年、3年も休みがちで、今で言う不登校の引きこもりでした。どもりを笑われた記憶はいまだに心の奥に隠れていて、わたしが言葉にこだわるのも、またまとまった話をマイクを持って話したりできないことも、子ども時代のトラウマから逃れられないのが原因です。
ですから、塚本幼稚園の子どもたちがこれから長い人生を生きていくうえで、この幼稚園で刷り込まれた「教育」という名の「調教」がどれだけ心の重荷になっていくのかと思うと、とても心が痛むのです。マインドコントロールがとけないまま、自分は周りの人よりも「すぐれた人間」と思って他人を差別したり、トラウマから脱出できないでもがき苦しんだり、ひとによって絶望の果てに自ら命を絶ってしまうひともいるかも知れません。
わたしは塚本幼稚園や、つくるはずだった瑞穂の国記念小学校が「右翼教育」を子どもに押し付けていることだけが問題ではなく、そもそも大人が子供を自分の思うままに支配し、理解できるとは思えない「教育勅語」を丸暗記・唱和させること自体の暴力を絶対に許してはいけないと思うのです。しかしながらそんな「偏った」ことができるのは、国家が子どもたちの「学びあう場」を保障するのではなく、刑務所の調教システムと変わりない「教育」システムを子どもたちに押し付けているからなのだということを、忘れてはいけないと思います。
そして一般には子どもたちは卒業することで学校から解放されますが、障害をもった子供たちの多くが学校を卒業してからまたもうひとつの訓練の場で「卒業」のないまま生きざるをえない現実もあります。
障害を持たない子どもたちにも一生卒業できないかも知れない塚本幼稚園での特別な教育(彼らの主張では素晴らしい教育)から子どもたちが自分を取り戻し、卒業できるように、わたしたち大人は長い時間をかけて彼女たち彼たちの未来を(干渉せず)見守って行かなければと思うのです。

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