わたしの「家族」

わたしは父親不在の子ども時代を送ったからなのか、父親がいて母親がいて子ども(たち)がいる、標準的とされる家族像になじめずにいました。
それでも子どもの頃、大衆食堂を切り盛りし、女手ひとつで私と兄を育ててくれた母に感謝しながらも、大きくなったらサラリーマンになろうと思っていました。どんな仕事をしたいのかではなく、「サラリーマン」という幻想にあこがれたのもまた、父親のいないわたしの心にまで、普通とされる家族幻想が忍び寄ってきたのでしょう。
しかしながら一方で、父親のいない家族だったからこそ自由でありえたし、「期待される家族像」の中に子どもや若者を社会の規範にしばりつけようとする大人たちのたくらみが隠れていることも学ぶことができたように思っています。
家族のありようなどはそれぞれですし、さらに言えばいつの時代も家族とは国家と個とのはざまにあり、個々の人間が助け合い、愛し合い、切ない思いを育てる場でありながら、それゆえに国家や社会が個々の人間をしばる道具となってきたこともまた、悲しい歴史が教えてくれます。
わたしが中学生の頃、母と兄とわたしの3人が身を寄り添ってその日その日を暮らしていたわたしの家族にも中古のテレビが届き、バラックと長屋が立ち並ぶ黒い土の路地をすり抜けるようにアメリカンポップスが流れてきました。
母がどれだけ切ない思いを抱いてわたしと兄を育ててくれていたのかを子ども心に知りながら、わたしは傲慢にもそんな母の姿を見るのが嫌でした。母は細面の美しい顔立ちの女性でしたが、その頃のわたしはきれいな服を着ている同級生のお母さんにあこがれ、うどんの汁がへばりついた割烹着をまとい、髪振り乱して働く母の後ろ姿が悲しくてしかたありませんでした。
テレビの灰色の画面に映し出される東京のビル街や大阪の歓楽街の白黒のネオンを観ながら、「いつかこの街を出ていこう」と考えていました。どもりで私生児で貧しくて、大人になんか好かれるはずもない頑なで生意気で暗くて孤独な少年にとって、学校の先生も地域の大人たちも街の風景も、そしてわたしのことをいちばん愛してくれていた母さえも疎ましい存在になっていきました。その頃のわたしにとって「家族」は一日も早くそこから脱出したいと思うだけのものになってしまっていたのです。

そんなわたしにも月日は流れ、高校卒業後すぐに家を飛び出し、どちらかというと明るくはなかった青春を通り過ぎ、結婚し、やがて2人の子どもの父親になっていました。1970年代、世の中は60年代後半の嵐の季節を置き去りにして、何事もなかったかのようにアクセルを踏みハンドルを切り、その後の高度経済成長をひた走る巨大なマシンへと変わって行きました。そして父親の後ろに国家があった戦前の封建的な家族像とは程遠く、夕暮れの路地に立ち並ぶ七輪からイワシの煙が蔓延する長屋の「清く貧しく美しい」家族幻想は、結局のところ「男は仕事、女は子育て」という観念を植えつけながら「ニューファミリー」というしゃれた幸福幻想へと模様替えを始めていました。
わたしもまた、世の中の「新しい家族像」に乗り遅れないようにと思いましたが、父親を知らないわたしには「標準的な家族像」をつくりあげることは難しいことでした。それでも2人の子どもが育ってくれたのは母親である妻と、なによりも子どもたち本人が自分の人生を切り開いてくれたおかげと感謝しています。
わたしが親子の愛や家族の愛、そして親子の絆や家族の絆というような言葉にいつも違和感を感じてきたのはこのような事情からですが、その一方で阪神淡路大震災や東日本大震災を経験することで、そんなわたしでさえいつもそばにいてともに生きてきた妻や妻の母、そして少なからずわたしを助けてくれた友だちと無事でいられることに感謝する気持ちが自然にわいてきます。
と同時に、大切な家族を亡くした方や離れ離れに暮らさざるを得ない家族に思いをはせながら必死に生きている方々、自然のせいだけではない理不尽な暴力にさらされた方々の悲しみや怒りがほんとうにわかるはずはなくても、被災された方々の困難な状況に思いをはせ、その心情に寄り添うことはできないものかと思います。
国も山河もやぶれた後、わたしたちがすがるのはやはり「家族」しかないのかもしれません。だとしたら、それを前向きに納得できるわたしがいる一方、「家族」を持たないひとたちに対するあたりまえの権利やセーフティネットが著しく欠落している社会への疑問もまた感じるのです。

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