中村哲さん講演会 in 箕面

2015年8月22日、大阪府箕面市のメイプルホールで「中村哲さん講演会 in 箕面」が開かれました。
わたしは2003年暮れまでの約20年間、箕面に住み、1987年からは豊能障害者労働センターで活動してきた関係でお声がかかり、箕面在住の時にお世話になった市民の方々でつくる実行委員会に入り、共に準備を進めてきました。
「ゆめ風基金20年記念イベント」と、能勢で春から活動に参加している「憲法カフェ」とこの講演会の準備と3つどもえでとても多忙な毎日でしたが、この講演会でひとまず大きなイベントは終わり、いまホッとしているところです。
中村哲さんとぺシャワール会の活動を知ったのはそんなに前からではなく、2001年のアメリカでの同時多発テロと、その後のアメリカをはじめとする有志連合国軍のアフガニスタンへの爆弾投下などの攻撃が始まった頃でした。
わたしたちはテロについては断固許せないとする一方、アメリカの「正義」をふりかざした空爆などの軍事攻撃によって、テロとは直接関係がないアフガニスタンの人々の命が奪われることにもまた断じて許せないと思いました。そしてなによりもわたしたち自身、このことがあるまでアフガニスタンの大かんばつや難民のことを知らなかった、知ろうとしてこなかったことにも申し訳なく、自分に対して腹立たしく思ったのでした。
その時、中村哲さんの活動を知りました。中村哲さんは1984年から現地に入り、最初は医療活動を展開してきたものの、「病気は治すまえにいのちを救わなければ」と、かつては緑豊かな農地が広がり、豊かな作物でほぼ100%の食糧自給率だった瓦礫を農地へとよみがえらせるための活動に重きを置くようになりました。井戸掘りから始まり、渇水と洪水を繰り返す大地に川からの用水路を建設し、その建設に毎日600人々を雇用し、8年かかって用水路を完成させました。建設に携わった人々だけでなく、この用水路建設によって広大な農地がよみがえり、戦争の傭兵になることでしか生活が成り立たなかったひとびとが本来の農民となって帰ってきました。やがて植えつけた野菜が収穫され、自給自足はもちろん、市場への出荷も始まったと聞きます。
わたしをはじめ、当時の豊能障害者労働センターのスタッフは中村さんの地道な活動こそが、いままた日本で騒がれている集団的自衛権や国際貢献の名のもとでの自衛隊の派遣による軍事力で押さえつける平和より、はるかに有効な平和活動だと思いました。それで、貧者の一灯でしかないわずかな支援金をペシャワール会に送金した他、機関紙「積木」紙上でペシャワール会の活動とわたしたちの思いを綴り、募金のよびかけをしました。

そんな縁があったことから、実行委員会から声がかかった時、豊能障害者労働センターにも声をかけたところ、機関紙「積木」編集部の協力を得て、この講演会の情報を幅広く知らせてもらった他、わたしの拙文まで掲載してくれました。
あらためて、豊能障害者労働センターに感謝します。
満席が予想されることから、前売りチケットの売り止めやお客さんの誘導の方法について何度も議論をし、当日を迎えました。
それが、なんということでしょう。当日のご来場は80人にもなり、通常なら30人ぐらいで後の方はお入りできない状況なんですが、前売りチケットを購入されている方で当日ご都合が悪くなった方や、最初からこの講演会を開きたいと必死で準備をしてきた実行委員会への支援カンパ券も入っていたようでキャンセル席があったことから、当日券をお求めいただいた方にも座席を用意することができました。
中村さんのお話は理念や信念、思想がアフガニスタンの大地とひとびとと共に悩み、行動することで生まれたものなので、一見わたしたちが思うことと正反対に思えるお話ひとつひとつがまさに目から鱗で、日本にいては気づかなかったことを気づかせてくれる、すばらしいお話でした。ペシャワール会への募金も21万円にもなりました。


7月末の豊能障害者労働センターの機関紙「積木」に掲載されたわたしの文章です。

ひとは銃を持つこともできるが鍬を持つこともできる
「僕は憲法9条なんて、特に意識したことはなかった。でもね、向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。」(中村哲)

8月22日、箕面で中村哲さんの講演があります。中村哲さんは日本国内の病院勤務をへて1984年にパキスタン北西部のペシャワールに赴任しました。その患者の半数はソ連侵攻や内戦による隣国アフガニスタンの難民でした。2000年、アフガンを襲った大干ばつは再び多くの難民を生みました。多くの病気は清潔な水と食料があれば防げるもので、中村医師は「病は後で治す。まずは命をつなぐことだ」と井戸掘りを始め、2003年から用水路の建設に乗り出しました。
わたしが中村医師とペシャワール会のことを知ったのは2001年秋、同時多発テロの直後で、その頃わたしは豊能障害者労働センターのスタッフとして働いていました。
豊能障害者労働センターは「障害のあるひともないひとも共に暮らせる町」をめざし、障害者の働く場づくりを進めてきましたが、一九九五年の阪神淡路大震災の時、自分たちだけの活動を続けるだけでいいのかと疑問を持ち、被災障害者救援活動に参加しました。
2001年9月の同時多発テロが世界を揺るがす中、アメリカ軍などによるアフガン攻撃が始まりました。わたしたちはテロは絶対に許せないと思う一方で、テロとは直接関係がないアフガニスタンの人々の命が奪われることに心を痛めました。そしてなによりもわたしたち自身、アフガニスタンの大かんばつや難民のことを知ろうとしてこなかった…。
アフガニスタンの人々が元の暮らしを取り戻すために農地を復活させる支援活動こそが平和をつくるもっとも近い道だと思い、その思いを託せるグループを探す中で中村医師とペシャワール会の活動を知ったのでした。
中村医師たちによる用水路事業は日本の江戸時代の工法だった「蛇籠(じゃかご)工」や「柳枝工」を採用しています。それはアフガン人が石積みの技術を持っているため、修復や保全などの持続的な管理がたやすいからです。一日述べ600人がこの用水路事業によって雇用され、流域の大地は農地としてよみがえる…、武器では決してつくれない「平和」な暮らしが実現します。
2010年に26キロにもおよぶ用水路工事は完成し、3500ヘクタールの農地とともに15万人の難民の帰還が実現しました。また最終地のガンベリ砂漠に農場を開墾し、米、麦、野菜などの栽培をしている他、既存の用水路をふくむ八か所の回収、保全によって将来は16500ヘクタールの安定灌漑と65万人の生活を守ろうとしています。
中村医師たちの活動は豊能障害者労働センターがすすめる「障害者を雇用するためだけに事業をし、障害者が経営を担う社会的企業」の理想とするものです。それと同時に、北大阪の小さな町で「共に生きる社会」をめざす豊能障害者労働センターの活動もまた、平和を愛し、平和をつくりだし、平和をまもろうとする世界の人々とつながっているのだと思います。

ペシャワール会のホームページ

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