無事です。ありがとうございます。ブロック塀とおばあさんの死

6月18日の朝、ほんとうに大きな揺れでした。お気遣いくださった方には個別に報告させていただきましたが、わたしの住む能勢では思いのほか被害はなく、わたしたち夫婦も近隣に住む子供たちも無事でした。一安心しつつも、他の地域の被害に心が痛みます。また、余震が頻繁に起こり、不安な心持で過ごしています。
妻の母親が亡くなってちょうど2か月になりました。最近、彼女をはじめとして身近な人が次々と亡くなり、いつのまにか自分の前に同時代を生きる人々が少なくなり、心を分かち合う友や先人がいなくなってしまった寂しさや孤独と、人間関係や仕事のわずらわしさから自由になったような不思議な感覚にとらわれます。
それはほんとうの「老い」がいよいよ始まったことでもあり、生き急ぐことも死に急ぐこともできず、若い時には想像もできなかった「自由」を持て余すことでもあり、若い時に読んだサルトルの「人は自由の刑に処せられている」という言葉が心にしみる毎日です。

わたしの年齢では阪神淡路大震災の体験が心にしみついていて、あの時以来、自分が大地にしっかりと根を下ろしている感覚がなく、浮遊している感覚に囚われたままなのですが、今回の地震はその感覚をあらためて鮮明に塗り重ねることになりました。
特に、高槻の小学校のプールのブロック塀が倒れて小学生の女の子が亡くなった痛ましいニュースを知り、阪神淡路大震災の時の記憶がよみがえりました。
1995年1月17日の朝、激しい揺れの後の余震におびえながら、その頃住んでいた家が豊能障害者労働センターの事務所に近かったこともあり、当時は事務所で仮住まいをしていた脳性まひのKさんの様子を見に行きました。
事務所の玄関を開けるとKさんは上り口のところで身を乗り出していました。その間にも頻繁に襲う余震でプレハブの事務所はガタガタ、バリバリとけたたましい音を出しながら小刻みに揺れ、そのたびにKさんとわたしは「アアッ、ヤアッ、オオッ」と意味の解らない叫び声を発しながら強く抱き合うのでした。
しばらくして、朝ご飯を食べに行こうと外に出ると、隣の家のブロック塀が道の方に倒れていました。今回のニュースで見たのと同じで、崩れるのではなくそっくり倒れていて、ブロック塀がとてももろいものだと知りました。簡単につくれるものだからどこの家でも、 また今回のような学校のプールの目隠しのために多用されていますが、時には控え壁もなく、また鉄筋がとてもたよりなかったり、中には鉄筋を入れない違法な建築になってしまうのだと思います。
倒れた塀のそばで、隣の家のおばあさんが立っていて、「こわかったね。大丈夫?」と、車いすに乗ったKさんに声をかけてくれました。わたしたちは「ありがとう」と言いながら道路に出て、朝ご飯を食べにいきました。
それから一週間後、そのおばあさんが亡くなりました。
その年、豊能障害者労働センターは被災障害者の救援活動に明け暮れる毎日を過ごしましたが、その中にいたわたしは今でもそのおばあさんとの何気ない会話を忘れることができません。
関連死もふくめて6434人の死者の中に、彼女の死はおそらく入っていないことでしょうし、関連死にさえ入らない彼女のたましいは、数えきれない多くのたましいとともに、生き残ったわたしたちの記憶の底に眠っているのだと思います。

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