島津亜矢「人生の並木路」・80年の時をくぐりぬけた時代の警告

今年は5月の「ピースマーケット・のせ」が終わっても、7月11日の箕面でのチャリテーコンサートを予定していて、なかなかこのブログに書きたいと思うことに手を付けられずにいます。島津亜矢の記事も随分と遅れがちになってしまいますが、その中でもこれだけは書いておきたいと思う記事として、6月10日のNHK「BS新日本のうた」で歌った「人生の並木路」、「UTAGE!」で歌った「ファイト!」や「RIDE ON TIME」などがありますが、今回は「人生の並木路」について書きます。
ご存知のように「人生の並木路」は1937年に佐藤惣之助が作詞、古賀政男が作曲、ディック・ミネが歌い大ヒットした楽曲で、映画「検事とその妹」の主題歌としてつくられました。わたしは子どもの頃はディック・ミネで、大人になってからは森進一の歌で何度も聴くたびに涙があふれ、何度も歌うたびに涙があふれる愛唱歌です。
わたしの母は今のしゃれた言葉でいえばシングルマザーでしたが、戦後すぐの混乱期に出会った父の愛人として兄とわたしを生みました。戦後すぐの蓄えた着物を売って暮らしをしのぐタケノコ生活も行き詰まり、料亭の仲居をしているときに若旦那衆の一人として何度か来ていた父と出会ったそうです。母はとにかく子どもが欲しかった。いっさいの援助もいらないし認知もいらないから、ただわたしたち子どもを産むことだけを条件にした付き合いで、わたしたちが物心がつく頃に別れたようです。
母は焼き芋屋から後に大衆食堂をたったひとりで切り盛りして、わたしと兄を育ててくれました。その当時もわたしたち家族が貧乏だったことはわかっていましたが、いま振り返るとなんの後ろ盾も福祉的配慮も受けず、朝早くから日付が変わる深夜2時まで働いて、片手に余るほどの薬を飲みながら、兄とわたしを高校まで行かせてくれた母の苦労は並大抵のものではなかったことでしょう。兄が脊椎性カリエスにかかり、人生を悲観し一家心中を考えたことも一度や二度ではなかったと母に後から聞かされて、その恩に報い、老いた母のせつない望みに完璧に応えるほどの経済力もなく、彼女が満足できる晩年の日々を用意できなかったことに心が痛みます。
早くに家を出て妻と出会い、若くに結婚したわたしとちがい、母と同居しなければならず、また同居するにはあまりにも手狭で日の当たらない実家に来てくれる女の人はその時代でもあまりいなくて、兄はわたしよりずいぶん後に遠縁で、家の事情をよく知っている娘さん(今の姉さん)と結婚することになりました。
その結婚披露宴で、わたしは泣きながら「人生の並木路」を歌いました。わたしたち家族の特殊な事情は、わたしに一方で早くその強い絆を断ち切りたいと思う一方で、どうしても切れない濃い血縁が自分の心と体にしみついていて、母と兄とわたしの3人が拠り所としている他人には説明できない切ない感情をあふれさせるのでした。
晴れやかな結婚のお祝いの場で「人生の並木路」を歌うというのは非常識だったと今では思うのですが、「生きていこうよ希望に燃えて、愛の口笛高らかに、この人生の並木路」という歌詞が、わたしたち兄弟の、それから後も決して順風満帆とは言えない人生を予言しているように思えたのでした。
わたしは演歌の巨匠といわれた古賀政男がそれほど好きではありませんが、「人生の並木路」や「影を慕いて」など、戦前の古賀メロディーには単なる感傷的な旋律というだけではない複雑な心情が隠れていて、いつ聴いても涙が出ます。
というのも、すでにこの時代には日中戦争と太平洋戦争に至る国家と軍によって個人・国民の自由が奪われようとしていて、その支配は古賀政男をはじめほとんどの作詞家、作曲家に限らず芸術・文化の表現行為すべてに及んでいたからです。
多くの音楽家がそうであったように、古賀政男も作詞家の佐藤惣之助も軍歌をつくりはじめていたこの時代、佐藤惣之助や古賀政男の心中は忸怩たるものがあったに違いありません。戦後、彼らもまた戦争犯罪者として裁かれるのではないかとおびえるほどに、国家の強い暴力に逆らえないまま戦意高揚の歌をつくり続けました。
その中で、「人生の並木路」や「影を慕いて」などの曲は当局の検閲のぎりぎりのところをすり抜けて、同時代の切なくも哀しい希望が隠れていて、大衆もまた表面的には国家に奉仕しながらもこれらの歌に隠された秘密のメッセージを受け止めたからこそ、大ヒットしたのだと私は思います。
1928年、古賀政男は自殺を図ります。その時に浮かんだ一片の詞から1931年の「影を慕いて」が生まれます。昭和恐慌、柳条湖事件、満州事変と軍靴の足音が時代を切り裂こうとしていました。若く繊細な心と壊れやすい感受性をもつ古賀政男は、自分の個人的な体験の裏側に暗黒の時代や歴史があることを知ったのだと思います。
そしてこの歌「人生の並木路」では、兄が妹に話しかけるように歌います。時代はますます暗くなり、明日のいのちもわからずますます悪い方向へと流されていく恐怖と不安を隠しながら、「もうしばらくの我慢だよ、とにかく生き延びることだ、いつかは国家の抑圧から解放される…」と、兄は妹に諭すのでした。兄と妹という設定は単なる兄弟というのとは少し違い、唐十郎の芝居のように二人の間に淡く純粋な恋が隠れていて、それがとりわけ二人の強い絆と、自分たちではどうにもできない大きな世の中の流れにひたすら固く抱き合い、銃弾だけでない国家の暴力が通り過ぎるのを息をひそめて待ち続けるのでした。
「雪も降れ振れ夜路のはても やがてかがやくあけぼのに わが世の春はきっと来る。」

さて、この歌の島津亜矢の歌唱は、数々の歌い手さんのカバーの中でも特異で、すばらしいものでした。というのも、わたしがつらつらと書いてきたこの歌の時代性がよみがえってくるからなのです。美空ひばり、ちあきなおみなど見事な歌になっているのですが、戦争へと至る、いやすでに戦争に突入している時代の暗黒と、その暗黒の果てに切なくも「わが世の春」を切望する古賀政男と佐藤惣之助の心情までも島津亜矢はすくい上げ、歌に込めるのでした。
そして、今によみがえるこの歌と共振する歌があるのでしょうか。そう思った時、たとえば「SEKAI NO OWARI」や「エレファントカシマシ」、「グリム・スパンキー」、いま休憩している「いきものがかり」など、長い戦後から戦前になろうとしているのかも知れないキナ臭い時代の空気を感じて、一時避難所もしくはシェルターの役割ができるこの人たちの音楽が「人生の並木路」とつながっていることを感じます。
しかしまた、古賀政男たちが通りすぎなければならなかった国家の強い暴力が今によみがえらないようにこそ、わたしたちは闘わなければならないのだと思います。
たとえば東京オリンピックや万国博への世論の誘導や憲法改正(?)のために国民投票の情報活動に、ジャンルを越えたミュージシャンが動員され、「踏み絵」を踏むようなことがないように…。

古賀政男「人生の並木路」

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