障害者の音楽的冒険・「糸賀一雄記念賞第十三回音楽祭」

この2週間は公私ともどもめまぐるしく、何を書いてどの順番に書くか迷っているうちにあっという間に毎日が飛び去って行きました。
まずは16日、わたしが働いている被災障害者支援「ゆめ風基金」の障害者スタッフ・Fさんと滋賀県栗東のさきらホールに行ってきました。
この日、ゆめ風基金の呼びかけ人代表の小室等さんが総合プロデュースされた「糸賀一雄記念賞第十三回音楽祭」が開かれたのでした。
糸賀一雄といえば、日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られ、「社会福祉の父」とも呼ばれています。1946年、戦後の混乱期の中で池田太郎、田村一二とともに、知的障害児等の入所・教育・医療を行う「近江学園」を創設し、また1963年「びわこ学園」を創設、東京の島田療育園とならんで重度知的障害児・者施設の先駆けとなりました。その時代、国家においても社会においてもまた家においても一人の人間とみなされなかった差別の中で生きざるを得なかった知的障害児・者に社会福祉や社会保障の光を当てたという意味で、その功績は広くに知られています。
しかしながら時代が変わり、障害当事者の運動が盛んになる1970年代においては、教育においても市民生活においても雇用においても障害者の市民参加を保障することが求められるようになります。そして国際障害者年を機に、社会が障害者をありのまま受け入れ、共に生きる社会をめざす障害当事者をはじめとする市民の運動が広がって行きました。わたしもまたその運動の末端で、企業が雇わない障害者の雇用と所得保障をめざす豊能障害者労働センターの活動に参加していました。
その頃は施設で暮らす障害者の音楽や美術などの芸術表現にたいして、少し斜めに見ていました。施設や養護学校(現在は特別支援学校)における障害者のさまざまな表現行為は「アウトサイダー芸術」として国際的にも評価の高いのは事実ですが、そのことで彼女たち彼たちの施設での暮らしが変わるわけではなく、自立生活へとつながっていかないことに疑問を持っていました。最近では才能のある障害者のアートを一般の美術市場で販売し、本人に正当な報酬を返す活動もありますが、それはそれでごく一部の人に限られています。結局のところ障害者の経済的な自立を保障するためにはその人個人の才能や「能力」に依存しない社会的な制度が必要なのだと思っていたのでした。
そこで豊能障害者労働センターでは、世界をびっくりさせるほどの才能ではなくても、市場の開拓や企画内容によっては障害者の表現作品が少なからず人々に受け入れられ、その収益が障害者の雇用と所得保障につながる活動として、障害者のアートをデザインしたTシャツの販売をはじめました。わたしたちのコンセプトは障害者のアートTシャツの販売事業そのものを「アート化」し、障害者と経済をつなぐいわば「恋する市場」を開拓することにありました。この事業は想わぬ反響を呼び、カレンダーとともに豊能障害者労働センターの通信販売事業の柱となって現在に至っています。

「糸賀一雄記念賞第十三回音楽祭」は糸賀一雄記念財団が障害福祉分野で顕著な活躍をされている方に「糸賀一雄記念賞」と「糸賀一雄記念しが未来賞」を贈るのに合わせて毎年開かれている音楽祭です。障害者をはじめ、音楽やダンスが大好きな人たちが集い、人が根源的に持つ「表現することの喜び」をともにわかちあうお祭りです。
プロのナビゲーターを迎えて滋賀県内の7つのワークショップグループと、さきらホールで活動する「さきらジュニアオーケストラ」と高齢者のワークショップグループ「今を生きる」が出演し、そして最後に糸賀一雄生誕100年を記念してつくられた谷川俊太郎作詞・小室等作曲の「ほほえむちから」を出演者全員と小室等さん、こむろゆいさん、そして客席の参加者も一緒に歌いました。ゲストミュージシャンとしてピアノの谷川賢作さん、パーカッションの高良久美子さん、バリトンサックスの吉田隆一さんが溶け込むように参加していて、会場はボーダレスな感動に包まれました。
わたしはとくにオープニングの太鼓が印象に残っています。開演の前から総勢数十人の障害者たちが思い思いに大小さまざまな太鼓をたたいていました。それは開演となっても変わりなく、それぞれが自分勝手にばらばらにたたいているように思えるのですが、しばらくたつとそのばらばらの音の連なりの彼方から、ある意志を持った音の連なりが会場の空気を振動させ、わたしたち観客はフリージャズそのままに自由の風につつまれました。
その至福の音とリズムは、わたしたちが日ごろある種の緊張感を共有することで成立している表現行為とはまったく真逆で、どこまでも自由でリラックスした人間関係からしか生まれないものなのでしょう。それは人類が誕生して以来、「おーい」と叫び、「わたしはここにいる」と伝えることから発明した言葉や楽器による原初的な表現そのものであることも…。その音楽が生まれる場所は平和を願い、ひとがひとを傷つけてしまう現実から、だれも傷つけない、だれも傷つけられない勇気と夢を育てる場所でもあることを、そしてアウトサイダーアーティストと言われる障害者にかぎらず、わたしたち人間はつながりを求めて言葉を発し、楽器を奏で、歌を歌うことをやめることができないことを、彼女たち彼たちが教えてくれました。そうですよね、人間は武器を持つこともできるけれど、楽器を持つこともできるのですね。
その後、合唱やダンスや打楽器や太鼓など、次々と演奏やパフォーマンスが繰り広げられるのですが、どのグループもそれぞれの個性を生かしながら、「自由であること」とか「自由とは何か」とか、「自由をもとめる」ことがそれぞれの表現の根底にあります。
この自由な表現はナビゲーターのプロの演奏家が「指導する」のではなく、彼女たち彼たちの表現行為の現場に立ち会い、その根源的な表現行為に感動し、そこからまだ見ぬ彼方へと手を携えながら進む音楽的冒険を彼女たち彼たちと共に体験しなければ実現しなかったのではないかと思います。それは総合プロデュースを担当された小室等さんにとってもまったく同じで、小室さんが真っ先に彼女たち彼たちの表現に圧倒され、感動され、ご自身の音楽的よりも底の深い表現行為なのではないかと自問自答されたのではないでしょうか。
そして、200人を越えたかも知れない出演者たちを取り巻く現実は40年前とあまりかわらないのではないかと思いながらも、「表現すること」への希求や生きがいはそれぞれの人生においてかけがえのないものであることもまた真実なのだと思います。
それぞれの夢も希望も現実もちがうけれど、同じ空気を吸い、同じ時を生きたことを宝物とするこの音楽祭の意義もまた深く、ゆたかなものであることはまちがいありません。
フィナーレで登場した小室等さん、こむろゆいさんも加わり、出演者全員と共に「ほほえむちから」を歌っていると、自然に涙が出てきました。
このお祭りの準備から最後まで、並々ならぬ努力をされてきた主催者の方々、関係者の方々、そしてプロの音楽家の方々、総合プロデュースをされた小室等さん、そしてなによりもすばらしい表現を実現させた出演者のみなさんに敬意を表します。

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