再度、ピンクさんが教えてくれた「もうひとつのピースマーケット」

今年で3回目となる「ピースマーケット・のせ」を間近にして、どうしてもあるひとのことを思い出してしまいます。そのひとは2000年にこの世を去ったピンクさんです。
35歳の時に、わたしの人生をかえる2つの出来事がありました。ひとつはその5年後から16年間在職した豊能障害者労働センターの運動、もう一つはわたしがはじめて企画に参加した「自由の風穴」コンサートをきっかけに、音楽業界とはちがう自分の歌いたい歌を歌い、自分の聴きたい音楽を聴くライブやイベントの主催者になったことでした。
くしくも今年の7月11日にクラシックのチャリティコンサートを開くことになった会場でもある箕面文化交流センターの8階のホールで、「自由の風穴」コンサートを開いたのは1982年のことで、豊能障害者労働センターが活動を始めた年でもありました。
その頃、わたしは大阪府豊中市の北部に住んでいて、犬の散歩によく河原に行ったものでした。そこにはよくバイクを止めた5、6人の若者がたむろしていました。
近所の住民たちに怖がられていた彼らとちょっとしたきっかけで話すようになり、彼らが近所の学生で、それなりに一生懸命生きていることがわかりました。彼らに教えてもらったアイアンメーデンは、ビートルズ以後ほとんど音楽を聴かなかったわたしにはとても新鮮な音楽でした。
そして、夜に星を観ながら他愛のない話をする若者たちを「怖い」と思ってしまう地域のありように疑問を持ち、ロックコンサートを開きたいと思ったのでした。
その時に助けてくれたひとがSさんで、彼は「ベ平連」とつながる「今こそ世直しを!市民連合」のひとりで、政治的な活動と音楽の活動とが別のものではなく、ともに自由でありたいと願うかけがえのない表現であることを教えてくれました。
そして、Yさんの友人のピンクさんと出会ったのでした。
そのころ、ピンクさんは中之島公園で「グラスルーツコンサート」という手づくりコンサートを開いていました。関西のフォークシンガーの友人に声をかけ出演してもらい、自分の演奏もするという、総合プロデーサー兼アーティストとしてフル活動していました。とても気さくで面倒見がよく、やさしいひとでした。と同時に、とことん音楽が好きなんやな、ということが伝わってきました。アーティストとしての野心がなかったはずはないのですが、それよりも「歌いたい、演奏したい」と渇望する若いひとたちに表現の場を用意したいという情熱にあふれていました。
やがてグラスルーツコンサートは、能勢の「青天井」に引き継がれていきました。ピンクさんにはウッドストックの影響があったのかもしれません。夏だったと思うのですが、ある企業の能勢のキャンプ場を借り切って夜通しライブをし、疲れたひとは各々のバンガローに雑魚寝したりその場で寝たりして、彼のもっとも好きな言葉どおり、自由でアナーキーなライブでした。
その頃は豊中に住んでいて世間知らずのわたしは、能勢がとんでもなく遠い異国の地のように思ったものでした。それが今、能勢に住んでいて、能勢も能勢の人も大好きになり、PEACE MARKETという不思議な催しに参加することになるとは思いもしませんでした。
もうひとつ、ピンクさんにずいぶんお世話になったことがあります。それは1990年代のはじめに箕面で3年開いた「ハッピークリスマス」で、日ごろ人権問題にかかわる人々と障害当事者の交流を深めるため、ロックを中心に韓国舞踊やダンスを楽しんでもらう企画でしたが、ほんとうの手弁当でPA機材一式をピンクさんが持ってきてくれて自らオペレートもして、歌も歌ってくれました。会場にジョン・レノンの布看板をつるし、ピンクさんが訳詩した「イマジン」を歌ってくれました。ピンクさんに頼らなければ費用の方でもまたこのイベントのコンセプトの面でも実現しなかったイベントでした。
この時、わたしは彼を悲しませる申し入れをしてしまいました。その頃彼は「伊達屋酔狂」というアーティスト名を使っていました。わたしは障害者問題にかかわる一人として、その名前の「酔狂」の「狂」を、チラシに印刷することをどうしても受け入れることができませんでした。その頃蔓延していた言葉狩りだと、彼は激怒しました。周りからもわたしの申し入れを理不尽ととらえる人も少なからずいました。わたしはさまざまな障害を持つ友人との出会いから、いままで何も考えずに、いわゆる差別的な言葉を使っていたことに次々と気づかされていた頃でした。相手を罵倒する時や、反対に親しみを伝えるために、時として「あほ」や「狂う」という言葉を使ってしまうとき、それらの言葉で差別を受けてきたひとたちのひとりひとりの顔を思い浮かべることはないでしょう。もし彼女彼らの顔を思い浮かべたら、やはり使えない言葉なのだと今でも私は思うのです。
しかしながら「そんなこと言うんだったら、この話は無しや」と電話で怒る彼には、いくら話してもそれは理不尽で教条的な理屈でしかなかったのだと思います。
イベントの話はすでに進めているにどうしようかとおろおろするわたしに、共通の友人から「直接会いに行って気持ちを伝えたら」と言われ、おそるおそる電話をし、彼も渋々それに応えてくれました。
ところが、彼の家に行った時には機嫌を直してくれていて、「よく来た」と歓迎してくれました。わたしが話をするまでもなく、障害者団体が主催するイベントに「狂」はまずいなと言い、「酔夢」という別の名前にするといってくれたのでした。その時、彼の音楽への思いや生き方について、随分長い間話してくれました。また、言いたいことはいっぱいあっただろうけれど、わたしの頑固で偏狭な思いについても一定の理解をしてくれたのだと思います。
「ハッピークリスマス」は3年とも盛況でした。障害者がダンスが好きで、またとても才能のあるひとたちがたくさんいることにびっくりしました。この催しは豊中に受け継がれ、そのあとずいぶん長い間続いたと思います。
それからずいぶん年月が過ぎたある日、友人から、ピンクさんが亡くなったと聞きました。犬の散歩中に転倒し、頭を強く打ち、そのまま逝ってしまったということでした。
くしくも2000年の秋深い時、彼がけん引した20世紀の谷間舎に誘い込まれるように49歳の若さで逝った彼は、「青春」を精いっぱい生きたのだと思います。何にもとらわれない柔らかい心と人なつっこい笑顔がお別れの会に行ったわたしに語っていたように思います。
ロックンロールは死なずと…。

さあ、輝く陽の光 たえまない水の流れに
生命の力が今よみがえるように
ああ、限りない風の力
あかあか燃える木の炎
だけど原子力の炎とはさよならさ
訳:PINK「POWER」

TOM西村&Mino king『POWER』(cover)訳/モモタローPINK
ピンクさんのグラスルーツコンサートをけん引したひとりのTOM西村さんは遠く三重の地でこの歌を歌い続けておられます。

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