新しい歌謡曲の可能性 阿久悠と島津亜矢

2007年8月1日、阿久悠がなくなりました。この年の7月30日には若い時に心酔した映画監督・ミケランジェロ・アントニオーニが亡くなり、続けさまの訃報に心がしめつけられました。
1960年代に永六輔が中村八大、いずみたくとともに、戦後の路地が街に変わっていく時代のひとびとの心をみごとに歌にしたように、阿久悠は1970年代、高度経済成長、大量消費社会の時代と向き合い、時代の行方を探しながら新しい生き方、新しい愛のあり方を数分の歌の中で語ってくれました。その時代をかけぬけ、その時代に愛を知ったわたしたちの人生の場面場面で、阿久悠の歌がいつも流れていました。
日本一のヒットメーカーといわれた昭和の作詞家の死に、テレビは特集番組を連発し、新聞でもたくさんの特集記事が組まれたことを思いだします。
この頃、後にリーマンショックへとつながるアメリカのサブプライムローンの問題が表面化し、世界の金融に激震が走った時でした。
1980年代、イギリスのサッチャーイズム、アメリカのレーガノミクスに象徴される新自由主義の台頭は、膨れ上がる福祉予算とむだな公共事業を削減し、企業減税をすすめ、規制による市場の介入をやめることで、ひとびとが自由に参加できる生き生きとした社会の実現を標ぼうしました。その波は世界に広がりましたが、日本では小泉改革として記憶に新しいことでしょう。実体経済の何十倍、何百倍もの信用経済のもと、世界中のお金が国境を越えてぐるぐるまわるグローバリズムは経済の活性化や自由化や国際化の掛け声によって、一握りの成功者、富めるひとをつくりだすとともに、それにつりあうように世界のたくさんの人びとを貧困にし、日本でもホームレス、ワーキングプア、ニートなど、次々と多くの問題が噴出しました。
2007年は、約30年間、世界を席巻していた新自由主義が崩れ始めた年でした。阿久悠の死は、1980年代から今日にいたる日本社会の「砂上の楼閣」が崩れ始めるメッセージでもあったことを、いまふりかえって思います。
そして、大震災後のわたしたちが、ここからどんな世界を望むのか、そのための一歩をどこからはじめたらいいのか、いまわたしたちが一生懸命考えるための大切なカギを、阿久悠はいまでもわたしたちに渡す準備をしてくれているように思います。

わたしの決して華々しくなかった青春時代、大阪府吹田市の古アパートに住み、ビルの清掃をアルバイト感覚で仕事にしながら、いつか「何者かになる」ことをぼんやりと夢見ていた頃、テレビもないわたしの部屋に隣の部屋から紛れ込んできた歌はピンキーとキラーズの「恋の季節」やいしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」でした。
くしくも同じ1968年のヒット曲ですが、70年安保闘争のさ中にも歌謡曲は別の回路を通ってその時代を歌い、ひとびとの恋や愛を3分間のドラマに変えてきたのでしょう。いまでもこれらの歌を聴くことがあると、タンスもない部屋で窓にはった紐にランニングシャツをかけていたアパートの部屋がよみがえってきます。
歌謡曲の面白さを教えてくれたのは寺山修司でした。わたしが子ども時代に口ずさんでいた美空ひばりや春日八郎の歌謡曲は、中学に入って中尾ミエ、伊藤ゆかり、園まりの和声ポップスになり、やがてビートルズ、ローリングストーンにとってかわられるのですが、その同じ時に寺山修司が畠山みどり、美樹克彦、北島三郎などを語る歌謡曲論は、わたしが捨ててしまいたくなっていた歌謡曲を拾いなおすことに力を貸してくれたのでした。
歌謡曲ではいつも女が耐え忍んだり、話し合えば悲劇にならないのにと思うことが多々あるのですが、しかしながら「歌で命をすくわれたりする」ことがあるほど、歌謡曲はわたしの心の底にいまも雑然としまいこまれていて、ある日とつぜんなんの脈絡もなくよみがえったりします。それはちょうど、暗室に残されたままの現像しなかったフィルムのように、あるいは世界のどこかにある「歌の墓場」からよみがえるように…・
1970年代、寺山修司が歌謡曲で人生を語ることを教えてくれたように、阿久悠は歌謡曲で時代を語ることを教えてくれました。たとえば「また逢う日まで」や「ざんげの値打ちもない」や「どうにも止まらない」など、毅然と人生の新たな一歩を踏み出しながらも心の底に未練を隠す男と女を、たった数分間のうちに一本の映画のように映して見せる彼の歌づくりには、いつも時代の断面があらわれ、時々はそこから熱い血があふれでていました。1970年代はまさしく、阿久悠の歌によって語られたといっても過言ではないでしょう。
1980年代になり、J-POPの台頭により歌謡曲というジャンルが分解してしまったのと時を同じくして阿久悠の歌づくりは終わり、小説へと創作活動はうつっていきました。しかしながら、阿久悠はきっと今にいたる音楽業界の変化をよしとは思っていなかったにちがいありません。
わたしは「いきものがかり」や「YOU」などJ-POPの中でも好きなグループがいますが、そのひとたちの音楽に見ているのも、やはり「歌謡曲」なのでした。
阿久悠にとってジャンルはどうでもよく、それよりひとつの歌が時代を語り、その時代を生きるひとびとの人生を語れる、そんな歌がなくなっていくことにいらだっていたように思うのです。それは同時に、そんな歌を必要としない今の時代への絶望感もあったかもしれません。(ちなみにこのブログを読む人に賛同してもらえないかもしれませんが、1980年代は忌野清志郎が歌心をひきついでいたのだとわたしは思っています。)

阿久悠がもし、1980年代にいろいろなしがらみもなく、島津亜矢と出会っていたらと思っていました。島津亜矢は歌謡曲が分解してしまった後に、演歌歌手として出発しました。彼女にとって「演歌」は自分を表現する大切なジャンルにちがいないのですが、その枠にははまりきれない「大きな歌」を歌える数少ない歌手の一人です。 作詞家であると同時に名プロデューサーでもあり、数多くの歌手を育てた阿久悠が もし、1970年代に島津亜矢という天才と出会ったら、阿久悠は彼女のために必死に歌をつくり、それを売り込み、必ず大ヒットさせたにちがいありません。彼の野心を駆り立てるのに十分すぎる島津亜矢の歌をひっさげて、彼一流のするどいナイフで時代をみごとに切り開いたことでしょう。
しかしながらもし1980年代に出会っていたら、彼はどんなプロデュースをしたのでしょうか。時代がすでに彼の歌を必要としなくなりつつあることを知っていた阿久悠が、それでも島津亜矢にどんな歌を提案し、ヒットチャートへとみちびく努力をするのか、とても興味あることです。

そしていま、時代はもう一度阿久悠を必要としはじめているように、わたしは思います。彼が歌づくりをやめてしまった時代、それは新自由主義のもとで、ひとが孤立せざるをえない時代でした。そこでは世界中で吹き荒れたグローバリズム旋風にふきとばされそうになりながらも、もう一度ひととひととが手をつなぎ、身近な路地裏から歌が匂い立つ、そんな歌謡曲を必要とするひとたちが、いつか来る夜明けを待ちながら必死に生きてきたのではないでしょうか。もっとも、その形はきっといままでとはちがうでしょうし、案外J-POPのジャンルからも生まれる可能性すらあります。
その時、生まれ来る新しい歌謡曲を歌うもっともふさわしい歌手が島津亜矢だと信じてやみません。その時、どんな歌を歌ってもその歌に収まりきれない島津亜矢のスケールの大きさがはじめて多くの人々に受け入れられることでしょう。
島津亜矢の新曲アルバム「悠悠~阿久悠さんに褒められたくて~」におさめられた10曲は、もし阿久悠が生きていたならシングルとして一曲ずつていねいにつくりあげた、幻のヒットナンバーの10曲であることでしょう。
それほどこの10曲はどれも独自の光を放っていて、島津亜矢の「女ごころ」、「歌ごころ」を見事に開花させています。こんな10曲をオリジナルで持ってしまったら、今年の秋からのツアーで島津亜矢はどの歌を歌うかとても悩むことでしょうね。わたしは個人的には島津亜矢ファンが、もちろんわたしも楽しみにしているポップスのカバーの数を減らしてでも、これらの新曲を歌ってほしいと思っています。
すでにステージでうたっている「恋慕海峡」、「宿命」はもとより、シングルカットされる「麗人抄」の他に、たとえば「想い出よありがとう」などはテレビドラマや映画の主題歌になってもふしぎじゃないですし、「旅愁」、「はにかみ」など、どの歌も心に残る言葉とメロディーにあふれています。

島津亜矢「想い出よありがとう」

新しい歌謡曲の可能性 阿久悠と島津亜矢” に対して1件のコメントがあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です