わたしたちの「ディーバ」・島津亜矢

11月1日の梅田芸術劇場の島津亜矢リサイタルが迫ってきて、落ち着かない日々を過ごしています。東京での模様を教えてくださっているファンの方によると、阿久悠のアルバムの全曲を歌ったと聞き、どんな舞台構成なのかとわくわくしています。
わたしは通勤時間に「SINGER」と阿久悠のアルバムを交互に聴いているのですが、阿久悠のアルバムでは「旅愁」から「思い出よありがとう」のくだりが大好きで、ここを何度もリピートしています。そのことはまた別の機会に書くとして、とにかくこのアルバムの収録曲を聴けるのはとてもうれしいです。カバー曲もあるかなと思うのですが、今度はどんな歌を歌ってわたしたちを驚かせ、喜ばせてくれるのかとこちらの方も楽しみです。
このブログではすでに島津亜矢のことを何回も書いてきてもう書くことがないと思ったりするのですが、DVDを観たりテレビに出演した彼女を観ていると、わたしの心の底からどくどくと何かがあふれてくるのでした。
わたしの友人が的確に指摘したように、わたしは島津亜矢を通して自分史を書いているのでしょうが、わたしにとって「歌」とは自分の人生と隣り合わせにあって、時には人生が歌を選び、時には歌が自分の人生を導いてくれるような「ともだち」でした。
子ども時代、夕方には長屋の前に七輪がならび、いわしをいっせいに焼く煙がたまらなくしあわせな気持ちにしてくれたあの頃、歌はほこりまみれのラジオの彼方からヒューヒューと吹きすさぶ雑音とともにやってきました。
わたしはといえば、いわしの煙のゆくえを探し、ラジオからこぼれおちる歌を追いかけて、戦後10年のこの長屋からもこの暗い路地からも脱出する夢を見つづけたものでした。
もし、子どもがおとなになっていく青い時がいとおしいひとを傷つけてしまうことがあるとしても、そして長い時をへてそれを悔やむことがあるとしても、わたしはいとおしい母やいとおしい友を一度は捨てなければおとなになれなかった、そんな青い時を走り抜けなければなりませんでした。
あれから半世紀以上も過ぎた今、島津亜矢のファンになったのもそのことと無縁ではないと思っています。「ベティ・ブルー」や「IP5」と共にジャン・ジャック・ベネックス監督の代表作となった映画「ディーバ」の中で、郵便配達夫が憧れのオペラ歌手の歌声を高性能録音機で盗んだように、わたしもまた島津亜矢の歌を盗み、彼女の歌を水先案内人にして生きて行こうと思うのです。(ディーバとはもともとオペラのプリマドンナのことですが、魅力的な女性歌手、歌姫という意味でも広く使われています。)

前にも書きましたように、ひと月に一本、彼女のリサイタルのDVDを買ってきましたが、今月は2003年のDVDを買って、何度も観ているところです。
このリサイタルで、彼女は母を歌う歌として「岸壁の母」と「瞼の母」を歌いました。「瞼の母」については以前に書きましたので、今回は「岸壁の母」について書こうと思います。
この歌は1954年に菊池章子さんが歌ったものだったことをわたしは今まで知りませんでした。シベリア抑留から解放され、旧日本兵を乗せた引揚船が舞鶴港に着くたびに息子を待ちつづけた母・端野いせさんをモデルにしたこの歌は当時も多くのひとびとの心をつかみましたが、その18年後の1972年、二葉百合子によって浪曲調にリメイクされ250万枚の大ヒットになりました。1972年と言えば戦争体験が風化されはじめた一方で、戦争の責任がどこにあるのかをあいまいにしたまま高度成長を疾走していた時代でした。そして、母親の没後、2000年になって実は息子が生きていて、中国で妻子をもうけていたと報道されます。息子は母が舞鶴で待っていることを知っていましたが、「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と言ったそうです。
この話には異論もあるようですが、わたしはこの話が本当であればなおさら、「岸壁の母」はより複雑な感情を呼び起こす歌として後世に残ることでしょう。そして戦争、シベリア抑留という歴史に翻弄された上に、歌だけではないにしても、歌によって人生が大きく変わってしまった親子の悲しみが心に残ります。
島津亜矢の「岸壁の母」は彼女も二葉百合子の弟子であることからも当然のこととして、浪曲調の歌となっています。最近とくに思うのですが、彼女はオリジナルであろうとカバーであろうとその歌が誕生した「特別の場所」を探すように歌を歌っていると思います。
この歌の場合もそうで、彼女はこの歌の中の波高く広大な日本海、母のかなしみが届かぬ彼方の海に向かって歌っているように思います。
わたしは今回、菊地章子さんの歌を聴いてみて、浪曲調でないオリジナルの方がこの歌らしいと思いましたが、島津亜矢にもスタンダードのバラードや昔の歌謡曲の調子で歌ってみてほしいと思いました。
さて、そんな事情とはまったく無縁に、わたしは「岸壁の母」に特別の想いがあります。それは1983年、豊能障害者労働センターの創世記にやってきたSさんのことです。
それについては次に書こうと思います。

島津亜矢「岸壁の母」

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