ふたたび「BS日本のうた 1」

先日、NHKのBSで放送されている山田洋次が選ぶ日本映画100選の番組で、「東京キッド」をこの歳で始めて観ました。
1950年に公開された斎藤寅次郎監督のこの映画は、母をなくした少女が下町のアパートに住む流しの青年や絵描きたちに助けられ、やがてアメリカで成功した実の父の下へ戻るまでを描いた物語で、美空ひばりが主演し、川田晴久、花菱アチャコ、堺駿二、榎本健一などかつての名優たちが脇をかためた名作です。チャップリンの「キッド」をモデルにしたといわれる喜劇で、貧困の中にも明日への夢を抱いて今日を必死に生きる人々の姿が描かれていて、戦後の混乱から5年をへた時代の息吹が伝わってきました。
そして、何と言っても当時13才の美空ひばりの熱唱は圧巻で、この映画で歌われた60年以上も前の歌は今流行りの歌とはちがうのは当然のことですが、今の歌には乏しい自由と希望に包まれています。古いはずのそれらの歌は、戦後の焼け跡から明日を夢見て歩き始めた日本人のアイデンティテイがぎっしりとつまっているようなのです。
さらに不思議なことにこの頃の歌は日本の歌にもかかわらず、同時に今よりもはるかにインターナショナルで、アフリカや中東、アジアや南アメリカなどの民族音楽がそのオリジナリティを失わず西洋音楽と奇妙に融合していったように、美空ひばりの歌もまたそのままでワールドミュージックになっているのです。その意味で、美空ひばりは今の「演歌」というジャンルではとうてい説明のできない歌姫であったことをあらためて感じました。
さて、はるか遠くから時代が時速300キロで疾走してきた今、島津亜矢の場合は「演歌」という枠がなければ今までの足跡を残せなかったのでしょうが、それゆえに天賦の才能をこの小さなジャンルに押し込めるのは美空ひばりと同じく、あまりにも気の毒なように思います。
島津亜矢「BS日本のうた 1」に収録された曲は1999年から2002年までにNHK「BS日本のうた」で歌われた曲で、わたしがこの番組を観るようになったのは2004年、妻の母親と同居するようになってからですから、その頃の島津亜矢の歌を一度も聴いたことがありません。ファンの方々のおかげで、ユーチューブでその頃の映像を観ることができるのですが、以前にも書きましたが歌手としておそらく一度目の高みに達したその熱唱は、ファンでなくても圧倒され、感動されると思います。
わたしは演歌に限らず、「カバー曲」という言い方があまり好きではありません。たしかに、オリジナルの歌手はその歌の誕生に立ち会える幸運を得ますが、一方で多くの歌手やその歌を聴くたくさんのひとびとによって歌い継がれ聴き継がれることで、歌は巷に流れ、時代の色に染まっていくのだと思うのです。
わたしが最近またジャズの魅力にはまりかけているのも、ジャズの場合はもっと自由にいろいろな音楽をいろいろなひとが共有している感じがするのです。そして、ジャズというジャンルがあるにはあっても、ジャズは実はジャンルではなく、ミスマッチと思えるような二つの音楽や文化がぶつかり合い、そこから多様な音楽が生まれ、共存するあり方がジャズなのだと思うようになりました。
島津亜矢がカバー曲を歌うと、歌は生まれた時からその出自からはなれ、歌を必要とするすべてのひとの心に届けられるものであることをつくづく感じます。それほど彼女が歌うとその歌のもっともやわらかい無垢な心が、まるで手のひらから小鳥が飛び立つように解き放たれるのでした。
それは、映画「東京キッド」での13才の美空ひばりの、羽衣のようにやさしく伸びやかな節回しに包まれた透き通る声が、生まれた時代も場所もまったくちがう島津亜矢に受け継がれていることを、ファンの身びいきを差し引いても感じずにはいられません。
今回もまた、このアルバムの個々の歌のことを書く前に紙面が埋まってしまいましたが、どの歌もすばらしいのですが、わたしの個人的な好みとして古い歌に心が惹かれます。「黒百合の歌」、「長崎の鐘」、そして「影を慕いて」を聴くと、ほんとうに歌は時代の闇を越えて何度でもよみがえることが実感できます。もちろん、それは島津亜矢なればこそで、言い方を変えると島津亜矢は時代を越えて歌をよみがえらせる巫女としての宿命を持ってしまったのだと思います。かつて美空ひばりがそうであったように…。
なかでも、「影を慕いて」は古賀政男が絶賛したという森進一とその本質はよく似ていながらも癖のない歌唱で、戦前の鬱屈した時代の空気と古賀政男の実体験にもとづくとされるせつない恋の心情があふれたすばらしい歌になっていると思いました。
古賀政男や古関裕而が戦時歌謡をつくったことが批判されていますが、今また時代の空気が怪しくなる中で、アーティストに限らずわたしたち自身がどれだけ翼賛的な流れにのみ込まれないでいられるかという問いが現実味を増しています。
それだからこそ、古関裕而の心の声を聞いたわけではありませんが、島津亜矢が歌う「長崎の鐘」を聴くと深い祈りが込められていて、歌はやはり歌わされたりつくらされたりするのではなく、歌いたい、つくりたいと思うひとつの魂の震えから生まれるものであることを教えてくれる一曲です。
また、もうひとつの流れとして島津亜矢の歌の王道とも言える北島三郎の「風雪ながれ旅」、「川」が光を放っています。今も活躍する大先輩の歌をカバーすることには多少の遠慮がありそうな演歌のジャンルにおいて、北島三郎は自分の一門ではないけれど心の底で島津亜矢を深く認めていて、いずれは自分の歌を彼女に託したいと思っているのかもしれません。北島三郎の歌を歌うときの彼女はいつものびのびしていて、それが北島演歌の魅力を充分すぎるほどわたしたちに伝えてくれます。ちなみに「川」はCDのほうはデビュー時のうなりの強い歌い方で、わたしは断然番組の方が好きです。(これはLUXMANさんの編集によるものなのでしょうか。)
というわけで、いましばらくは阿久悠のアルバムを置いといて、「BS日本のうた 1」を聴きまくる毎日です。島津亜矢は今日の「NHKのど自慢」に出演し、ふくやかな表情を見せてくれましたが、わたしは昨年の阿久悠のアルバムと今年の座長公演で島津亜矢は大きく化けたと思っていて、これからの10年の予想もつかない彼女の冒険に立ち会える幸運を手に入れたことをとてもうれしく思っています。

島津亜矢 長崎の鐘

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です