島津亜矢の「旅愁」と寺山修司とわたしの青春2

遠い記憶の風景の中で、窓ガラスを雨がたたいていました。幼稚園にむりやり連れられ、泣き叫ぶわたしがいました。結局母はわたしを幼稚園に入れるのをあきらめました。その後小学校1年の2学期まで、わたしは学校に行きませんでした。
ともだちがみんな幼稚園に行っている間、わたしは歌の本で言葉をおぼえました。最初は童謡でしたが、そのうち従姉妹が持っていた「平凡」や「明星」の付録についていた歌謡曲の本へと広がっていきました。恋とかせつない別れとか、なにもわからずに歌を教えてもらい、口ずさみました。それがはじめて出会った音楽だったと思います。
小学校の3、4年生ぐらいになると、貧乏なわたしの家にも中古のラジオが登場しました。兄とわたしを育てるために髪振りかざして一膳飯屋をしていた母。その母が三橋美智也の「哀愁列車」が聴こえてくると手を休め、ラジオに聴き入っていました。わたしたちといえば日が暮れるまで缶けりや鬼ごっこして走りまわったものでした。わたしたちのまわりには原っぱがいっぱいありました。錆びた鉄屑とぼろ切れ、そして時には焼けこげた廃材で組んだ小屋。そのまわりにはへっこんだやかんや鍋がころがっていました。
夕暮れ、暗い家のタンスの上に置かれたラジオから、遠く地の果てからやっとたどりついたような歌が聞こえてきました。時々ざぁーっという雑音がわたしたちの心の荒野を風のように吹きぬけ、耳を近づけたとたん、突然がなりたてるのでした。ジャズもブルースも流れていたかもしれませんが、わたしには広沢虎造の浪曲や歌謡曲しか耳に入りませんでした。
中学に入るとテレビが登場し、ロカビリーをテレビ画面が映すのを目撃しましたし、坂本九、ジェリー藤尾、森山加代子のヒット曲が街に流れました。けれども、そのころのわたしにとっては、なんと言っても畠山みどりでした。1962年、「恋は神代の昔から」でデビューした北海道生まれの畠山みどりの代表作で、島津亜矢の恩師・星野哲郎作詞の「出世街道」は、長い間わたしの愛唱歌でした。
高校に入るころ、わたしの暗い青春を多少とも彩ってくれた寺山修司は歌謡曲で自分をはげまし、人生を変え、行動していくもうひとつの革命があると言いました。どもりの人が「やるぞみておれ、口には出さず」と歌う。「口には出せず」が「口には出さず」になる時、それは自己変革のはじまりなのだと、ほんとうに寺山らしい屁理屈なんですが、どもりのわたしにとっては自分のことを言ってくれていると感激しました。
エラ・フィッツジェラルドが好きだという畠山みどりの歌には、どこか聴くひとの人生のやわらかい部分にぐっとくいこむやさしい牙のようなものがありました。だからこそ、寺山修司がもっとも多く取り上げた歌手のひとりとなったのだと思います。
ビートルズ、ボブ・ディラン、ジャズ、そしてブルースへとつながり、今にいたるわたしの音楽の旅のはじまりが畠山みどりだったとしても、なんの不思議もなかったのでした。

秋にもみじの こぼれる道を
ひとり歩けば しみじみと
目を赤く染めた娘の
別れの言葉 思い出す
あれから数えて 何年
もう誰もいない
「旅愁」

島津亜矢が歌う「旅愁」を聴いているとまるで一本の映画を観ているような気持になります。子どもころの街の映画館、映写室からフィルムのまわる音、時々画面の中村錦之助の顔が焼けただれたと思うとぷつんと切れてしまい、暗闇が物語の展開を想像する楽しみをくれたものでした。ここに来るまでにもう何枚ものスクリーンを通りすぎ、いつも光の雨が降っていた映画。あれから半世紀以上もたち、あの時の映画のようにわたしの心によみがえる子ども時代の風景が、島津亜矢の歌でよみがえるのでした。
小学校6年生の時に都会から転校してきた女の子と、フォークダンスではじめて握った手の冷たさ。中学2年で転校してしまった女の子の、白いブラウスの下ではずかしそうに膨らんでいた小さな胸…。それらを恋だとは今も呼ぶことができません。
あれから数えて何年、もう誰もいない。あの頃の少年少女たちは、いまどこにいるのだろう。そしてなによりも、あの頃のわたし自身、少年だったわたしはいまどこにいるのだろう。
老いるということはいろいろな可能性がなくなっていくのではなく、わたしが選ばなかった道、出会えなかったひとたち、別れてしまったひとたち、起こらなかったできごと、実在しなかった恋人と夢の中で出会い、語られなかった人生を語ることをゆるされた時間なのだと思います。
そして、子どもの時からずっと忘れてしまっていたこと、あの時言えなかった言葉、「さよなら」。たったこれだけのことが言えなかった少年時代のわたしに、いまのわたしがかける言葉はみつかりませんが、島津亜矢が歌う 「旅愁」という歌は、どんなにわたしが心の奥に隠し通してきた言葉にすらならない小さな恋心さえも、見事に思い出させてくれるのでした。
ほんとうに奇跡としか言いようがありませんが、阿久悠が残した詩が島津亜矢の歌になった幸運は彼女だけのものではなくわたしの幸運でもあり、いまのわたしを支えてくるたいせつなたからものであることは間違いないのです。

島津亜矢「旅愁」

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