島津亜矢と坂田明とモンゴルの歌

ずいぶん前になりますが、NHKの「課外授業 ようこそ先輩」という番組で、ジャズ・ミュージシャンの坂田明が母校である広島県呉市の長浜小学校の子どもたちに話したエピソードがあります。
同じNHKで、坂田明がモンゴルの遊牧民の暮らしと音楽を訪ねる番組がありました。その時のことだったのか、またそのいきさつをはっきりと憶えてはいないのですが、モンゴルの遊牧民を訪ねると歓迎の意をこめて音楽を演奏してくれたそうです。モンゴルの遊牧民の音楽は果てしない草原と風、草原の草花を育てる夜露、そして草原と共に生きるひとびとの暮しと切り離せないもので、馬頭琴の調べやホーミーは風が歌っているようです。
そして、「サカタ、あなたも何か演奏してくれ」と言われ、ジャズを演奏すると、「あなたの故郷の音楽を聞かせてほしい」と言われたそうです。フリージャズの旗手としてその激しい演奏と音楽性で世界的な評価の高い坂田明ですが、この時彼は自分の音楽、自分の故郷の音楽とは何かと突き付けられたと言います。
そして、子ども時代に暮らしとともにあった民謡「音戸の舟唄」をみんなで歌おうと提案します。それも音戸の瀬戸を櫓で漕ぐ感覚を体で感じてもらおうと実際の船を浜に持ち出し、伝馬船漕ぎにも挑戦しながら歌をおぼえていくのでした。
音楽は五線譜で書かれたものだけではなく、その土地の風土や季節、自然と共に生きるひとびとの息づかいから生まれることを、彼は子どもたちに伝えたかったのだと思います。

わたしは子どもの頃にまわりから聴こえて来た歌謡曲や浪曲や民謡を、青春時代にさけるようになりました。わたしのぱっとしなかった青春時代にも、遅ればせながらジャズやポップスやロックが押し寄せてきたことと、古い因習や親子の絆などから解き放たれ、自由に生きたいと思う欲求に突き動かされて、「日本的なもの」のすべてが疎ましく思ったのでした。
時代もまた戦後すぐから時を経て、アメリカやヨーロッパからやってきた音楽が若者に浸透するにつれてロカビリーやフォークなど(後に今のJポップスへとつながっていくことになるのですが)、自分で歌をつくり、自分で歌うひとたちが現れてきます。
わたしといえば、母と兄との暮らしから自由になりたくて友だちと共同生活をはじめ、同世代の若者たちが大学紛争や安保闘争など、社会に異議申し立てをするのを横目でみながらヒッピーまがいの暮しをしていました。そんなわたしに必要な音楽はジャズやロックではあっても、決して演歌や浪曲や民謡ではありませんでした。青臭く生意気に愛と平和と自由を求めて「もうひとつの革命」を夢見ていたわたしには、日本的な文化が単なる保守的で古い因習にとらわれ、若者を国家や民族に縛り付けるものにしか見えなかったのでした。
とは言っても、ひとりの人間の考え方や好み、ましてや音楽や歌への関心はそう簡単に説明できるほど一本化されているわけはなく、わたしもビートルズやローリング・ストーンズ、日本ではスパイダースやリンド・アンド・リーダーズなどを聴きながら、一方でこの頃に現れた森進一のファンでもありましたが…。

1970年6月の日米安保条約の自動継続後、政治運動や反体制運動に参加しなかったわたしのような若者でさえ納得できず、うっ屈した感情をどう整理したらいいのかわからないまま、社会は服を着替えるように高度経済成長へとハンドルを切り、アクセルをふみました。そしてわたしは社会に順応できないコンプレックスをかかえながらもなんとか40才まで会社勤めをつづけた後、豊能障害者労働センターのスタッフとして活動し、それから今にいたるまで障害者の活動の片隅で良き友人たちとともに生きてきました。
その間、わたしが必要としてきた音楽は若い時のままで、それに加えて80年代からJポップの中に新しい才能を発見することぐらいでした。
そんなわたしが演歌の番組を観るようになったのは、2003年の暮れに妻のおかあさんと同居することになったのがきっかけでした。おかあさんはほんとうは越路吹雪や岸洋子など日本の古いポップスが好きで必ずしも演歌が好きとは言えないのですが、最近のJポップスを受け付けないために演歌の番組しか観れないのでした。
そのおかげというか、もともとあんまり音楽を聴かなくなっていたわたしは、NHKの「歌謡コンサート」と「BSにほんのうた」の演歌歌手の歌をいつも聴くことになりました。美空ひばりをていねいに聴くようになったのも、それと同じ事情でした。もちろん、島津亜矢を知ったのもこれらの番組でした。
久しぶりにまた演歌を聴くようになって思うのは、わたしの若い時にはまだいろいろな歌が混在して聴こえて来たのに、最近は見事に演歌とJポップスに別れてしまっていることと、演歌の世界がとても窮屈になっていることです。演歌の世界で必死にがんばっている多くの方々の奮闘にもかかわらず、演歌がなかなか多くのひとびとの心に届かない現実があります。たとえば、映画やドラマで流れるテーマソングが演歌でなくなって久しいですし、パチンコ屋さんでかかる音楽もいつのまにか演歌ではなくなってしまいました。
ですから、「あの歌、誰が歌っているのかな」というように、演歌と出会うことがありません。これは人気がないから流れない、流れないから流行らないという悪循環で、演歌の世界は小さくなるばかりで、似たような歌手が似たような歌を歌ってその小さな市場を奪い合う悲しい現実があります。
しかしながら、Jポップスもまたスタジオで大量生産されていて、似たような歌手が似たような歌を歌っているだけで、たしかに演歌とはちがって流行り歌としてはいろいろな場所で聴くのですが、心に突き刺さるような言葉も感情の扉を叩くようなメロディーもリズムもなく、耳触りのいいカッコだけの音楽がほとんどのように思います。

そんな閉塞感を突き破るように、わたしの前に島津亜矢が立っていました。最初は彼女の歌を聴いただれもがそうであるように、彼女の声量と飛びぬけた歌のうまさに衝撃を受けました。そして、しばらくのあいだはその声量と歌唱力だけで彼女を好きになりました。
けれども、そのうちにそれだけでは説明のできない天賦の才能にほれ込み、それらを維持し、より豊かな表現力で支える努力、コンサート会場に来てくれるお客さんひとりひとりの心に届けるために精いっぱい歌う気持ち、そして歌に対するとても高い志に感動し、そんな彼女の歌を聴ける幸運に感謝するとともに、生きる勇気がふつふつとわきあがって来るのでした。
冒頭に戻り、坂田明の語ったエピソードを思い出したのは、新歌舞伎座の島津亜矢を観たからでした。モンゴルの遊牧民の家族が坂田明に突きつけた、「自分の音楽、自分の故郷の音楽」の意味を、わたしは島津亜矢によって教えられたように思ったのです。
彼女がひたすら演歌の世界で、落ち葉をひとつひとつ拾うようにオリジナルの歌を歌い、先輩たちの歌や世界の楽曲をその時の精いっぱいの表現力で歌い継ごうとする姿は愛おしさをこえ、気高さを漂わせています。彼女はまちがいなく、歌に愛され、歌に導かれ、歌を導く歌姫(ディーバ)なのだと思います。
そして、いったんは「日本的なもの」を嫌ったわたしの心にも、わが山、わが風、わが森、わが川…、自分の小さな自我を越える大きな自然の意志につつまれて生きてきたこの星、この土地の住人たちの千年以上にもおよぶ果てしない大河ドラマが隠れていることを、島津亜矢は教えてくれたのでした。

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  1. まとめtyaiました【島津亜矢と坂田明とモンゴルの歌】

     ずいぶん前になりますが、NHKの「課外授業 ようこそ先輩」という番組で、ジャズ・ミュージシャンの坂田明が母校である広島県呉市の長浜小学校の子どもたちに話したエピソード

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