「兄弟仁義」とわたしの青春・島津亜矢「BS日本の歌7」その3

北島三郎の「兄弟仁義」が大ヒットした1965年、わたしは高校3年生でした。
以前にも書きましたが、この頃のわたしは若さですますことができないほどかたくなで、生意気な少年だったと思います。それも対人恐怖症で、つい10年ほど前でも学校の授業で本が読めなくてみんなに笑われる夢を見ることがあったほど、どもりに悩み、おまけに私生児で貧乏で、不幸とさげすみを団体で引き受けたような気持ちでいた暗く陰湿な少年が、この社会そのものを全否定することでしか自分自身を認めることができないと思って、そうでなければ自殺しかないと自分で自分を追い詰めていった末のことでした。
ふしぎなもので、そんなわたしにも、というかそんなわたしだからこそ出会うともだちもいました。わたしは美術部に入っていたのですが、そこで知り合ったのが島津亜矢を教えてくれた亡き友・Kさんでした。また、わたしの口先だけの「反体制的」な言動に興味を持った先輩が「おい、死のう会を結成しようぜ」と声をかけてきたりしました。こんな風に書けばいまさまざまな問題を起こすアブナイ少年たちのあつまりのようですが、少なくとも明るい青春ではなく、先日亡くなった大島渚の「青春残酷物語」などの映画のように、心の闇を照らす蒼い青春のただなかにわたしも、また数少ないともだちも漂っていたのでした。
寒々とした心をもてあましていた内向的で好戦的なわたしは、その頃わたしたちに親を捨てて家出をすすめていた不穏な詩人・寺山修司に感化され、もっぱら歌謡曲で自分の人生を説明しようとしていました。
そして、強烈なメッセージをたずさえて聴こえてきたのが「兄弟仁義」でした。作詞家・星野哲郎は阿久悠ほどには歌で時代を変えたいという野心のない人でしたが、反対に時代に翻弄されるわたしたちを応援したり、その頃の学生運動とはちがう言葉で時代にあらがう歌をわたしたちに届けてくれたのでした。
もっとも鮮烈なのが「ひとりぐらいはこういう馬鹿が、居なきゃ世間の目はさめぬ」という最後の歌詞でしたが、わたしの心に届いたのは、「親の血をひく兄弟よりも」という最初の歌詞でした。もちろん、この歌は今ではいくぶん自粛の対象になるであろう、やくざの「義兄弟のかたい契り」を歌った歌にはまちがいがないのですが、社会性がまったくなく、数少ないともだちだけがたよりだったわたしは、義兄弟のところを「ともだち」と歌いなおしていたのでした。
日本社会はジャットコースターの上り坂のように高度経済成長の真っ只中で、戦後民主主義の「私生児」でもあったわたしは封建的な家から開放される自由を手に入れたはずなのに、どこか自由ではないと思っていました。そして、それはあながち自分がどもりで極度の対人恐怖症のせいだけではないと感じていました。
ひとつの暗闇からぬけだしたと思ったら、そこがまたもうひとつの闇だったように、小学生の頃に何度もしつこく教えてもらったはずの自由は、すでにたくさんの条件がついていました。
「やがてお前の時代が来るぞ」とおだてながら、一方でおとなたちは社会に迷惑をかけないようにとか、社会の公共が自由に優先するとか言って、「なにをするかわからない」こどもたちをコントロールしていきました。
そんな時に、「兄弟仁義」は寺山修司の「家出のすすめ」と同じメッセージを北島三郎の不敵な声と不敵な笑いとともに、わたしの心に届けてくれたのでした。
今から思えば、女手ひとつで世間の荒波に耐えながら兄とわたしを育ててくれた母にはほんとうにもうしわけなかったと思いますが、わたしは高校卒業と同時に家を出てアパートを借り、ともだちと共同生活をはじめました。そのころいつも、「親のひく兄弟よりも」と歌う北島三郎の歌声が心に響いていました。(母はずいぶん後に、「あの時お前が家を出て自立したのはよかったと思ってるよ」と言ってくれました。)
島津亜矢がもう一度歌ってくれることで、いろいろな歌が風呂上りの湯気のように立ち上り、その歌が路地に流れ、袋小路で渦を巻いていた頃の光と闇がよみがえってきます。
実は山下耕作の映画のことも書いてみたかったのですが、今回はここで終わりしようと思います。

島津亜矢「兄弟仁義」

北島三郎「兄弟仁義」

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