島津亜矢コンサート・大阪 フェスティバルホール2 

その後、島津亜矢のふるさと・熊本の地震による被災者への言葉があり、「帰らんちゃよか」と「思い出宝箱」を歌った後、少し記憶があいまいなんですが「亜矢ちゃんバンド」と呼んでいるサポートバンドの演奏が終わるとドレス姿で現れ、ポップスを歌いました。
知らない曲でいいなと思ったのを後から調べるとアン・ルイスの「ああ無情」でした。その他「勝手にしやがれ」、「ひと夏の経験」、「黄昏のビギン」、「Saving All My Love For You」などを歌いましたが、申し訳ないですが今回のコンサートではポップスの印象は演歌ほどのインパクトにやや乏しかったように感じました。
というのも、やはり昨年の30周年リサイタルからの流れでしょうか、原点に戻り、演歌・歌謡曲を中心に構成されていたからだと思います。もっとも、わたしが最初の「度胸船」で演歌歌手としての島津亜矢に魅入られてしまったからそう感じたのかもしれません。
その中でも、少しネガティブな感想で間違っているかもしれないのですが、「勝手にしやがれ」は島津亜矢には珍しくこの歌を読み違えているように思います。もちろん、どんな歌手にでも向き不向きがあるということで、島津亜矢でさえ向いていない歌があるのはあたりまえです。しかしながら、島津亜矢にはどんなジャンルでのどんな歌にも死角はないと思いたいという、ファンとしての無茶ぶりのわがままがあります。また、彼女はわたしが内心、ポップスのジャンルのこんな歌は歌えないだろうと思う傲慢な見くびりをことごとく打ち砕いてきましたので、彼女にとって決して難しくはないと思われる沢田研二の「勝手にしやがれ」に、素人ながら不満が残ってしまうのです。この歌は2009年のリサイタルで歌っているDVDを観ていて、歌詞通り「出ていってせいせいしてるような歌唱で、元気が良すぎるなと思いました。
わたしが島津亜矢のカバーがすごいと思うのはオリジナルを越えるからではありません。彼女はオリジナルの歌手とともにその楽曲の誕生の地にたどり着き、そこからその地にいざなう島津亜矢なりの別のアプローチを発見します。その結果、オリジナル歌手が彼女のカバーを聴いたとき、そんなアプローチもあったなと思わせる歌となってよみがえります。
たとえば松山千春の「恋」は、男を愛するがゆえに我慢してきた女性が愛の在り方に悩み、とうとう別れる決心をして家を出る物語で、松山千春はその物語を実は残されるはずの男の心情をかくして歌っています。ところが、島津亜矢の場合は家を出て自立していく女性の心情をより切なくもいさぎよく語る歌になっていて、ひとつの歌でありながら松山千春の「恋」のアンサーソングのようにわたしには聴こえます。
島津亜矢が「カバーの女王」ともいわれるゆえんは、その天賦の才能をたゆまぬ努力で磨いてきたからなのだと思います。ですから、わたしは最近の島津亜矢の進化が「勝手にしやがれ」をどのように変えるのか楽しみにしていたのですが…。
ハンフリー・ボガードをイメージし、クールでおしゃれな男を演じながら出ていく女への未練がいっぱいで、言ってることとは反対に「出ていかないでくれ」と心の中で懇願する男の女々しさを歌った阿久悠作詞・大野克夫作曲の「勝手にしやがれ」は、東京にビジネスもおしゃれも文化も集中する1977年という時代の危うさを背負い、セクシーさと退廃さを併せ持つ当時の日本を代表するボーカリスト・沢田研二のために作られた一曲でした。
この歌も、アルバム「SINGER3」に収録されている「時の過ぎゆくままに」も、沢田研二のカバーには島津亜矢の才能が活かされていないのはなぜか考えてみました。
それはおそらく、島津亜矢がブルースやジャズなどはすでに彼女の音楽の世界に溶け込んでいるものの、バラードを除いてアップテンポのロックにはまだしっくりと慣れ親しんでいないからかもしれません。「勝手にしやがれ」は阿久悠による優れた昭和の歌謡曲でありながら一方で大野克夫による優れたロックでもあるからです。
事実、「WHEN A MAN LOVES A WOMAN」や「Unchained Melody」、「I Will Always Love You」、「メリー・ジェーン」など、リズム&ブルースやソウルのバラードは、出自の演歌・歌謡曲の領域をこえる歌唱で、ポップスのジャンルのボーカリストとしての歌唱力を見事に発揮しています。
日本固有のものと思える演歌や歌謡曲はアメリカのアフリカンが生み出したブルース・ソウルと海を隔ててつながるものがあり、島津亜矢はブルースとつながる歌心をもった演歌歌手とわたしは思っていて、彼女がブルースやリズム&ブルース、ソウルにつながるポップスを歌える理由もそこにあり、また彼女がポップスを歌えば歌うほど出自の演歌・歌謡曲におけるこぶしやうなりがより繊細になり、表現力が飛躍的に伸びていくという好循環があります。
もし「勝手にしやがれ」がゆっくりしたテンポのバラードであったら、必ずや沢田研二の「女々しさ」を見事に表現してくれたものとわたしは信じているのですが…。
彼女は演歌の世界で、義理と人情のはざまで苦悩しながらもいさぎよく生きる男の歌はもちろんのこと、「函館山から」のように若さゆえに人を傷つけ、自分も深くきずついてしまった男、さらには宿命に翻弄され、生き急ぎ死に急ぐ男の青ざめた青春も表現してきました。あとひとつ、島津亜矢が「勝手にしやがれ」の男の女々しさを表現できるようになれば、また一段と彼女の歌の視野が広がるのではないかとわたしは思います。女性の心情の新しい表現はすでに「SINGER3」の「タクシー」でその片鱗が垣間見えます。
そんな不満はないものねだりとも言え、「黄昏のビギン」ではほとんどの歌い手さんのカバーがちあきなおみに依存しているように思われる中、オリジナルの水原弘のカバーにふさわしくビギンのリズムで歌っているのは絶品でしたし、ホイットニー・ヒューストンのカバーソングでもある「Saving All My Love For You」にはホイットニーへの哀悼も含まれた圧巻の歌唱でした。
ここで1部の幕が下りました。
2部では演歌歌手・島津亜矢の31年の締めくくりと、新しい可能性を感じさせる刺激的な舞台となります。そのことについては次の記事にします。

島津亜矢「思い出宝箱」

島津亜矢「Unchained Melody」

沢田研二 「 勝手にしやがれ」 (1977 )

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