島津亜矢コンサート・大阪 フェスティバルホール3

「亜矢のまつり」ではじまった第2部では、コンサートの定番を次から次へと歌いました。昭和の名曲シリーズで「りんごの唄」を歌い終えて客席まわりへとつながり、「ああ上野駅」、「なみだの操」、「津軽海峡冬景色」、「哀愁列車」、「真っ赤な太陽」まで怒涛の客席まわりでしたが、いつもながら島津亜矢本人はもとより、マネージャーともう一人のスタッフのガードとサポートは、島津亜矢を守りつつお客さんに喜んでもらいたいという気持ちが強く伝わってきました。
また、なにより客席の通路を素早く回り、お客さんのひとりひとりと握手しながら歌うというのは至難の業だと思うのですが、一音一語たがわずステージで歌うのとまったくグレードの変わらない歌唱ができる島津亜矢に毎回驚かされます。
ひとつひとつの歌については昨年のリサイタルの記事で書きましたが、今回のコンサートでも一段と磨きのかかった歌を聴かせてもらいました。
客席最前列で深々とお辞儀をした後再び舞台に上がり、「風雪ながれ旅」を歌いました。
さすがにこの歌は客席回りでは歌えない歌で、なおかつ客席回りのそれなりの猥雑な雰囲気を消し、もう一度舞台を締める役割を持っていました。
この歌についても重複するとは思いますが、前回の記事でカバー曲について書きましたように、この歌は島津亜矢のカバー曲の中でも特別な歌で、それは作詞した星野哲郎にとっても作曲した船村徹にとってもオリジナルを歌う北島三郎にとっても特別な歌で、さらに言えば演歌・歌謡曲のジャンルだけではなく、日本の大衆音楽にとってひとつの到達点ともいえる名曲です。
この曲が発表された1980年を境に日本の大衆音楽は激変し、大きくはJポップと演歌・歌謡曲が枝分かれしていった時代でもありました。1970年代に芽生えたフォークソングからニューミュージックは歌いたい歌を自分でつくり、聴き手もまた聴きたい歌を聴くために自らコンサートを企画するようになりました。そして80年代以降、音楽産業はレコード会社ではなく音楽事務所が主導権をにぎるようになりました。
実際、戦後のポップスをけん引した永六輔は作詞をやめた理由のひとつに、小室等や井上陽水のように、若者が自分のメッセージを歌にして自分で歌うようになったことを挙げていますし、阿久悠のように若者たちの直接的な感情を刹那的に歌うJポップでは時代を変え時代をつくり時代を越える歌は生まれないと、作詞に野心を燃やしたひともいます。
そんな状況の中、レコード会社を中心とする既存の音楽業界に束縛されていた演歌や歌謡曲が音楽的な冒険をすることが難しくなりつつあった時代に、「風雪ながれ旅」は初代高橋竹山にリスペクトしながらこれぞ「日本の歌」という強いメッセージをわたしたちに送ってくれたのでした。
星野哲郎は演歌を「援歌」と名付けた人ですが、この歌には門付けや瞽女(ごぜ)、くぐつなど定住社会からはみ出さざるを得なかった人々、一般社会のルールとは別の戒律で生きざるを得なかったひとびとをかくまい、保護し、育ててきた旅芸人の群れから生まれた食うための芸能が、淨るりや歌舞伎、能狂言、演劇、舞踊、小唄、長唄、民謡、三味線・太鼓など現代につながる日本の大衆文化のルーツであることを伝える強烈なメッセージが含まれています。
そして、船村徹にとっても若き時代に盟友だった高野公男と「新しい歌謡曲をつくろう」と誓い、友亡き後、たくさんの名曲を世に送り出してきた作曲家人生のひとつの到達点となった歌だったと思います。
北島三郎にとってもこの歌は自分の歌と言うよりは(当初は村田英雄に依頼したのですが、津軽三味線の世界とは合わないと断られたそうです)、師と仰ぐ星野哲郎と船村徹の最高傑作のひとつであることを痛烈に感じ、それまでの歌とは全く違う心持で二人の師のきびしい目と耳にさらされながら収録の場に立ったことでしょう。
そして言うまでもなくこの歌は大ヒットし、北島三郎の代表作になったわけですが、この歌をカバーする歌手は昔はともかく最近では島津亜矢の他に見受けられなくなってきたのではないでしょうか。
島津亜矢の「風雪ながれ旅」は北島三郎が収録した厳しい現場(そこにはほんとうに雪が暴れる北国の寒い風が吹いていたことでしょう)と同じ場所に立ち、風雪に身をさらし、凍えて感覚のない指で血をまきながら津軽三味線を弾き続けただろう高橋竹山の魂に近づこうとする、ある特別な歌手の特別な状況でしかやってこない宿命のような切迫感にあふれています。
現役のトップに立つ演歌歌手が自分の代表作を他の歌手が歌うことをいつも快く思うわけではないと思いますが、北島三郎は島津亜矢もまた宿命的にこの歌と出会ったことを知っているからこそ、なおかつこれからの演歌を背負う島津亜矢だからこそ、彼女がこの歌を歌うことを許すだけでなく、とても喜んでいるように思えるのです。
ここで書くべきことではありませんが、彼は心密やかにこの歌を島津亜矢に託しているのではないかと思います。
そして、久しぶりの「海鳴りの詩」、「波」などにつづき、今年の力作「阿吽の花」を熱唱しました。この歌は今年の3月に発表された歌ですが、彼女の歌唱力の進化でいえば、もしかするとこの歌が一番変わったのかもしれません。最近の魅力のひとつであるぞくっとする低音とふくらみのあるやさしい高音、歌の隅々まで彼女の円熟した色気が立ちのぼり、やはり名作歌謡劇場の作曲者である村沢良介が彼女に託したもうひとつの名作歌謡劇場の名品であることを改めて感じました。
ちなみにまた、誤解を恐れずに言えばこの歌唱法で「勝手にしやがれ」を歌ってくれたら、沢田研二の女々しい男をそのまま表現できるとわたしは思います。

そして、最後の一曲は名作歌謡劇場から、わたしの友人が手放しで感動したという「お梶」でした。1993年のこの作品は名作歌謡劇場の4作目だったのですね。
わたしが島津亜矢のコンサートに初めて行ったのは2011年の2月だったと思うのですが、その年の4月でしたか、大阪新歌舞伎座のロングバージョンのコンサートで初めて見た名作歌謡劇場は、たしか「お七」だったと思います。それから毎年このシリーズを観てきましたが、実のところ歌は見事な完成度でしたが、セリフというか一人芝居のようなものが歌の添え物のようで、一生懸命さは伝わるのですが全体としては少しなじめないものがありました。
ですから、彼女が座長公演で芝居をすることになった時、名作歌謡劇場でなじんでいるから芝居は大丈夫とは思えませんでした。その頃のブログに書きましたが、実際のところ、名作歌謡劇場でのモノローグとたくさんの役者やスタッフで作り上げるダイアローグとは、似ても似つかないものがあったと思います。
しかしながら、島津亜矢は芝居の大変さとともに芝居の面白さ、楽しさを感じ、いつもたったひとりで舞台に立つコンサートとはちがって、たくさんのひとたちにかこまれ、交じわっていくゆたかさに魅入られたのでしょう、演歌歌手の手慰みなどとはちがい、新しい表現行為に挑戦する冒険心を絶やさず、そのための努力を惜しみませんでした。
やがてその経験は本業の歌、とくに名作歌謡劇場に色濃く反映され、素晴らしい表現作品に進化させました。表現作品という変な言い方をするのは、和製ミュージカル風の一人芝居でもなくセリフの長い歌でもない、島津亜矢でしか表現できない固有の芸能にまで高められたからです。
わたしが最初に少しなじめないといったものが弱点どころか、一人芝居に閉じ込められない奇妙な空間となり、彼女が歌う演歌には登場しない女たち、捨てられたり騙されたり、自ら命を絶ったり心中したりと、日本の古典芸能によって記録され記憶された、男に踏みにじられた女たちの悲しみを表現する固有の大衆芸能になりました。
案外、わたしがかねてより切望する「新しい歌謡曲」とは、浄瑠璃をルーツとする名作歌謡劇場からはじまるのかもしれません。
「お梶」は2700席あるフェスティバルホールの満席のお客さんを圧倒し、コンサートは歓喜のうちに終了しました。
劇場に足を運び、島津亜矢と同じ空気を吸い、彼女の歌声の強烈な振動を浴びたやけどのような感覚がコンサートのだいご味です。経済的な制約はありますが、来年また座長公演があれば友人を誘っていきたいと思っています。

島津亜矢「風雪ながれ旅」

島津亜矢「 阿吽の花」

島津亜矢「お梶」

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