新しい日本のソウル・ミュージック 島津亜矢「時には母のない子のように」

ここ最近、地域のイベント「ピースマーケット・のせ」と友部正人コンサートに必死で、島津亜矢の記事が十分に書けませんでした。その間、島津亜矢はNHKをはじめとするテレビ番組で刺激的な歌を熱唱していて、今でも私の番組録画にストックされたままです。
イベントも終わりようやく落ち着いてきたのですが、友部正人の半世紀におよぶ歌の旅を追走しているうちに虜になってしまい、なかなか彼の麻薬のような歌の世界から抜け出せないでいます。
わたしは島津亜矢にめざめ、美空ひばりから、まだ記事を書けていないのですが高橋優、SEKAI NO OWARI、エレファントカシマシなどのポップス、果てはジャズやブルース、ロックに至る音楽の荒野を広げてきたのですが、友部正人はその誰ともちがう荒野を孤高に旅してきたひとで、ある意味島津亜矢とはもっとも違う道のりを歩んできた人です。
友部正人のファンからも島津亜矢のファンからも怒られることを覚悟でいえば、もし人類が誕生して以来、私はここにいるというつぶやきや悲鳴から、それを受け取る誰かが一人二人と現れて歌が生まれたのだとすれば、友部正人の歌の歌詞にあるように「歌は歌えば詩になって行き」、「君が歌うその歌は世界中の街角で朝になる」のだと思います。
友部正人が歌の生まれる瞬間を旅し続けるシンガー・ソングライターなら、島津亜矢は歌の生まれる瞬間へと立ち戻り、歌そのものが持つ記憶を時代の共有財産としてわたしたちに届けてくれる稀有なボーカリストで、二人とも世界に広がる荒野をすすむ孤高の旅人であり続けることでしょう。

今回は先日島津亜矢がNHKの「うたコン」で熱唱した「時には母のない子のように」について書きたいと思います。実はこの放送があった5月16日の夜、わたしは友部正人コンサートの後始末で見ることができず、ユーチューブに上げてくれるファンの方の録画を見ました。
既に数多くの方々が報告されていますが、この数年間の島津亜矢のカバー曲にとどまらず、もしかするとオリジナルの歌唱を含めても最高の歌唱ではないかと思います。
「時には母のない子のように」は1969年に発表された歌ですから、島津亜矢はまだ生まれていません。ですからこの歌をカバーすることになれば歌詞と楽譜とオリジナル歌手のカルメン・マキの歌唱を研究するところから始めることになるでしょう。
すでに何人かの歌唱力のある歌い手さんがこの歌をカバーしていますが、どのカバーも当時17歳だったカルメン・マキが無表情で歌う暗い歌という印象をなぞり、少し変わった歌謡曲という範疇で歌われているようです。
しかしながら、島津亜矢はまったくちがう歌唱でこの歌を私たちに届けてくれました。それは単に明るく歌うことではなく、1969年という彼女自身が生まれる前の激動の時代につくられた歌が持つ記憶に導かれ、半世紀後の今、21世紀の日本のソウル・ミュージックとしてよみがえらせたのでした。
そしてこの歌が歌謡曲という体裁をつくろいながら、あらためて黒人霊歌をルーツとするソウル・ミュージックであったことを教えてくれたのでした。
島津亜矢が古い歌をカバーする時に懐メロにならないのは、先述したように歌には歌そのものが持つ記憶がいくつも隠れていることを知っていて、その記憶のひとつひとつを解きほぐし、歌の生まれた時代をよみがえらせることができるからです。そして、今回歌った「時には母のない子のように」は、最高のパフォーマンスでそれを成し遂げた歌唱であったと確信します。

「時には母のない子のように」は、寺山修司が作詞を手がけた初期のいくつかの歌の中でも大ヒットした曲で、カルメン・マキを一躍有名にした他、1967年に結成した劇団・天井桟敷の存在も広く世に知られるきっかけにもなりました。
寺山修司はその著書で美空ひばりや畠山みどりなど、数多くの歌手を取り上げています。70年安保闘争の主軸の一つだった大学生の学生運動よりも、彼は集団就職で地方から東京などの都会にやってきた若年労働者やフリーター、ヒッピーといわれる若者など、社会の底辺でうごめく若者たちによる「もうひとつの革命」を夢見ていたのでした。
そして当時発禁となった「家出のススメ」を読んで寺山を頼ってきた若者たちの活動の場として劇団をつくり、その劇団の資金作りのために次から次へと本を出版したり映画の脚本を書いたりしていました。寺山修司の本は少なからず当時の若者たちに圧倒的な支持を得ていました。私もまた、その中の一人でした。
彼のアカデミックなものへの攻撃は当時の現代詩にもおよび、書斎で書く詩よりも競馬の1レース分の長さの歌謡曲の方が、現代を生きるたくさんの人々に生きる勇気を与えると主張し、現代詩人よりも歌謡曲詩人・星野哲郎を高く評価していました。
「時に母のない子のように」は、そんな寺山修司が自らの作詞とプロデュースで歌謡曲の世界に挑んだ最初の試みといってもいいでしょう。
この歌は母の愛を賛美する歌ではなく、母親が子どもを精神的に拘束し、近親相姦に近い背徳と所有欲から逃れたい願望が歌われています。それはまた親子の愛で若者を手なづけ、国家や大人たちの都合のよい人間に調教しようとする社会への反逆でもありました。
当時この歌が実際に親のいない子どもたちを傷つけると批判がありましたが、その批判の根拠となる「両親がいて子どもがいる家族愛」というスタンダードな社会規範こそが、そうでない子どもを差別し傷つけていると考えていたわけでしょう。
それよりも、この歌が黒人霊歌「Sometimes I feel like a motherless child」にインスパイヤされてつくられていて、奴隷としてアメリカに連れて来られ、二度と母親に会うこともなく過酷な苦役と差別の中で「時には母のない子のように思う」と嘆く黒人奴隷のあきらめに似た嘆きを隠しています。いわば「時には母のない子のように」はそれ自体、世界の暗黒の歴史を記憶していて、寺山修司が日本の大衆音楽である歌謡曲の形を借りて世に送り出したソウル・ミュージックだったのではないでしょうか。
島津亜矢がそんなことを思って歌ったのかといえば、そうではないでしょう。反対に「感謝状~母へのメッセージ」と同じように、「母のない子になったなら、誰にも愛を話せない」と歌うことで、母の愛を賛美する歌と思っていたのかもしれません。
彼女の稀有の才能は、たとえ彼女がそう思っていたとしても、歌の持つ記憶が彼女にほんとうのことを伝えてくれるのでした。
ちなみにわたしは、どちらかといえば「感謝状」は苦手な歌で、この歌に限らず母の愛や親子の情よりは、同じ星野哲郎でも「兄弟仁義」のような「友情」を歌った歌が好きなんですが…。
島津亜矢に「時には母のない子のように」をうたうことを依頼した「うたコン」の制作チームに拍手を送りたいと思います。このチームの中にはこの歌が単に母の愛を賛美する歌ではなく黒人霊歌を本家どりする寺山修司の隠し玉であったことをよく知り、ソウル・ミュージックやリズム&ブルースを歌える島津亜矢に、「I Will Always Love You」の向こうを張る日本のソウルを歌ってもらいたいと思う人たちがいるのでしょう。
この番組への批判が演歌ファンに多く、Jポップのファンはこの番組を見ない状況は、実は島津亜矢と彼女を長年ボーカリストとして高く評価してきたNHKの音楽番組制作チームにとっては絶好のチャンスだと思います。
かつて「BSの女王」と言われたころとよく似ていて、バラエティ化した番組構成にかくれて、どんな音楽的冒険もできる環境にあると思います。美空ひばりに対してそうであったように、島津亜矢にどんな歌を歌わせるのかと心躍らせて企画を練るこのチームに乾杯です。

島津亜矢「時には母のない子のように」

カルメン・マキ「時には母のない子のように」

Sometimes I Feel Like a Motherless Child」

Janis Joplin「Summertime」
ジョージ・ガーシュウィンが1935年のオペラ『ポーギーとベス』のために作曲した「サマータイム」もまた、この黒人霊歌にインスパイアされてつくられました。
カルメン・マキはジャニス・ジョプリンを聴き衝撃を受け、ロックバンド「OZ」を結成し、数々の名演を残しました。2年前、天六の古書店で開かれたライブは総勢20人ぐらいのお客さんで、わたしは彼女と1メートルないぐらいの距離の席にいました。
素晴らしいライブで、寺山修司の呪縛から解放され、さまざまな音楽的冒険を経て今、寺山修司をこよなく愛する彼女が歌った「時には母のない子のように」は、本来のソウル・ミュージックに戻ったやさしさのあふれた歌になっていました。

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