「現実原則の革命」としての大衆音楽の可能性。島津亜矢「SINGER4」

島津亜矢のポップスカバーアルバム「SINGER4」には、これまでの3作以上に刺激的な楽曲が収録され、島津亜矢は超多忙な日程の間を縫って20曲以上をレコーディングし、そこから15曲を厳選したようです。
出来上がったアルバムを聴くと島津亜矢がギアを入れ直し、時にはトップギアで歌いきり、ただひたすら疾走するその音楽的冒険に心が震えます。今回のアルバムはこれまでの3枚のアルバムに比べて島津亜矢チームも島津亜矢本人も力の入れ方が尋常でなく、ライブとは違い自分自身との闘いという孤独なレコーディングでありながら、その場にいないリスナーのひとりひとりの心に届けたいという祈りさえ感じられるせつなさがありました。
ポップスのジャンルへの本格的なデビューを果たし、演歌とポップスの両ジャンルをクロスオーバーしながらその歌唱力、声量・声質に加えて、歌を詠む力を身に着けたボーカリスト・島津亜矢がステージや音楽番組で充分に歌えない歌、彼女が今いちばん歌いたい歌を収録するこのアルバムには、進化し続ける歌姫の「現在」がぎっしり詰まっています。
それだけに9月30日に開かれた東京オペラシティコンサートホールでの後援会主催の「シンガーコンサート」を一般の公演スタイルにして、わたしの住む大阪や名古屋、福岡などでも開いてくれないものかと思っています。特に、今年のようにポップスのジャンルでのブレイクに応えるためにも、全国のファンが望んでいるのではないでしょうか。
わたしはジャンルにかかわらず島津亜矢のいくつかの歌唱のタイプの中で、「大利根無情」、「風雪ながれ旅」、「度胸船」、「瞼の母」、「兄弟仁義」、「旅愁」、「山河」、「想い出よありがとう」、「さくら」(森山直太朗)、「恋」(松山千春)、「恋人よ」、「歌路はるかに」などを歌うときの島津亜矢がもっとも好きで、コンサートでこれらの歌を聴くと決して順風満帆ではなかった自分の人生をふりかえり、かなわぬ恋や取り返せない失敗、だれかを裏切ってしまった後悔、それでもこれでよかったのだと自分の人生を抱きしめてあげたいと思う不思議な感情に襲われ、涙があふれてきます。
というのも、女性の演歌歌手が歌う、耐え忍ぶ女や、待ち続ける女、失恋の旅に出る女など男の身勝手に翻弄される女性像に、実はうんざりしてしまっていました。もちろん、どんなジャンルにしても恋の歌はたくさんありますが、それを演歌の定番にすることで、歌詞にも曲にも歌唱法にも全く新鮮さや音楽的冒険というものを感じることができないのです。
オリジナルも含め、島津亜矢にはほとんどそういう歌がありません。少し前まではそれに抗するものとして「男歌」の達人と称され、本人も「男歌」を好んでいました。
わたしは特にフェミニストではありませんが、シングルマザーの母のもとで育てられたこともあり、男らしさや女らしさとか主人とか奥さんとか、特に「異性愛」を絶対化する日本の家族像にはなじめず、演歌に多い「男歌」に違和感を持っています。
そんな事情で、島津亜矢の「男歌」にも抵抗があり、どこかで彼女が歌わなくてもいいのではないかと思っています。手あかのついた「男らしさ」という既成概念を頼りにした楽曲は他の演歌歌手にまかせ、島津亜矢には欧米のジェンダーフリーとは一線を画した大衆音楽のジャンヌ・ダルクとして新しい時代を切り開いてほしいと思います。
寺山修司の言葉を借りれば、政治的革命は人間の革命の一部に過ぎず、「政治を通さない日常の現実原則の革命」としての大衆音楽の可能性は、ポピュリズムの危険をはらみながらも政治よりもダイレクトにサイレントマジョリティの心に届くのではないかと思うのです。
横道にそれてしまいましたが、わたしにとって島津亜矢は純情でひたむきで切なくて悲しくて、世の中のさまざまな差別や偏見や不条理や理不尽のただなかで、「わたしはここにいる。わたしはひとりではない。あなたもひとりではない」と、静かに手を差しのべる友情こそが人生のすばらしさと教えてくれた「時代の歌姫」なのです。
例えば「瞼の母」、過酷な世間の冷たい風を時には暴力によってしか切り裂くことができなかった男が自分を捨てた母親の叶わぬ愛を乞い焦がれるという物語は戦後の混乱期はもちろんのこと、日本の社会が子どもを捨てたり売り買いしてきた暗黒の民衆の歴史を背景にしています。
わたしは島津亜矢が「おっかさん」と叫ぶテロリスト・忠太郎のとてつもない悲しみを歌うとき、彼女が立つ場所はすでにステージの上でもコンサート会場でもなく、時と場所を離れ、切ない夢を持ち、その夢をかなえることができずに死んでいった無数の屍で埋め尽くされた日本列島に遍在する海岸や半島に立ち尽くし、それらの無数のいのちとともに、それでも見果てぬ夢を見ながら「わたしはここにいる」と心で叫び、振り袖を翻す彼女の姿がにじんで見えるのでした。
ともあれ、アルバム「SINGER4」の世界は、島津亜矢がまたひとつ新しい荒野の入り口で、この時代に想いまどうわたしたちに「大丈夫」と手招きして共にその荒野に足を踏み入れる勇気をくれるものでした。
カバーアルバムの中でも突出した情熱が込められたこれらの歌の群れがどこにいくのか、わたしにわかるはずもないのですが、音楽がグリコのおまけや商店街のタイムセールスの応援歌になった感がある危機的状況の中で、ある意味時代に逆行した島津亜矢の切羽詰まった歌唱は、人気とか評判とかブームとは縁がないかもしれませんが、時代の金太郎あめをめくりめくったその先にある時代の真実、わたしが生きてきた意味を教えてくれているように思えてならないのです。
時期的に年末の話題が増えていますが、わたしは今年こそ、波及力はなくなったもののレコード大賞でこのアルバムや、ガンダムのテーマ曲が受賞することを願っています。阿久悠のアルバムを見逃したレコード大賞の審査員チームのリベンジに期待します。
そして、島津亜矢と島津亜矢のチームに望むのは、カバーのアルバムで島津亜矢のオリジナリティを発揮するにはこのアルバムが限界のように思います。
やはり、オリジナル曲によるシングル、もしくはアルバムで島津亜矢のポップスを世の中に届ける時がきたのではないでしょうか。製作・宣伝・販売コストと兼ねあうヒットに恵まれるか難しい選択でしょうが、歌の作り手はこのアルバムのアーテイストを中心に依頼し、思い切った製作をぜひチャレンジしてほしいと思います。
それは、時代が追いつくことができずにいる稀有のボーカリスト・島津亜矢が人生をかけて待ち続けている恩に報いる最初の一歩であると確信します。
この文章を書き始める時は収録されている楽曲から、まず「YELL」から書こうと思っていたのですが、またまた前段で終わってしまいました。
次回は「YELL」について書きます。

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