鬱屈した演歌の牢獄から解放された島津演歌へ

9月9日のNHK-BS放送「新BS日本のうた」だったと思うのですが、島津亜矢が石川さゆりの「能登半島」を歌いました。
しばらく島津亜矢のポップスの記事が続きましたが、一般的には演歌歌手・島津亜矢というイメージが拭い去られたわけではなく、実際のコンサートでも演歌が中心になっていますし、演歌・歌謡曲中心の番組といえるNHK・BS放送の「BS新日本のうた」でも、やはり演歌を歌うことが多いと思います。
実はわたしは、彼女のポップスへのあくなき探求心はまだエチュード(練習曲)の段階で、初めて聴くポップスファンの驚きと激賞にもかかわらず音楽の冒険はまだ途上と思っています。というのも、今の時代では極端に小さい演歌の領域からの冒険は難しく、なんといっても演歌の10倍、いや100倍といってもいいJポップの領域からは次々と才能があらわれ、音楽の質、量、波及効果とも無限の可能性を持っているからです。音楽もまた市場によってつくられるのですからそれは当然のことで、優れた才能に満ち溢れた若いシンガーソングライターやボーカリストが量産されています。
その中で、演歌歌手として出発した島津亜矢は、ポップス歌手へと羽ばたく途上にあるのでしょうか。いいえ、決してそうではないとわたしは思います。彼女がポップスの領域で音楽を極めれば極めるほど、演歌歌手としての存在感も増すことになるでしょう。
美空ひばりは最後までジャズやブルーズを体と心に秘めながら、律義に世の中が求める演歌歌手であり続けました。彼女に戦後の復興と繁栄、焼け跡からの民主主義という神話を押しつけた世の中は、繁栄を享受するようになるとジャズやブルーズといった占領時代のアメリカの音楽ではなく、「日本人の心」を取り戻す疑似アンデンティテイとしての「演歌」を晩年の美空ひばりに押しつけたのだとわたしは思っています。
「能登半島」が発表された1978年はもとより、1970年代はピンクレディー、沢田研二、花の中三トリオなどのアイドルや、阿久悠やなかにし礼、千家和也などの作詞家、三木たかし、都倉俊一、筒美京平などの作曲家がしのぎを削りながらたくさんの流行歌を世に送りました。
ある意味、大衆音楽は「戦後」から脱出し、高度経済成長からバブル全盛期まで疾走していったのだと思います。この時代は若い人たちもふくめてそれほど音楽志向が偏らずに並走していたのでしょう。その中で演歌もまた前述のヒットメーカーたちの参入を得て今でも歌い継がれる数々の名曲が生まれました。美空ひばりにけん引されるように八代亜紀や森進一、五木ひろしなど、今も一線で活躍する演歌歌手が数多く世に出ました。
それから後、バブル崩壊から失われた20年を経て音楽の蜜月時代は終わり、まず初めに若い人たちの音楽志向がアイドル、ニューミュージック、Jポップへと猛スピードで変貌拡大しながら去って行き、演歌・歌謡曲は取り残されるように小さなジャンルを中高年の熱心な支えで持ちこたえてきたというのが現実でしょう。
1973年にデビューした石川さゆりは年齢がほとんど変わらない森昌子、桜田順子、山口百恵の影に隠れ、なかなかヒット曲に恵まれませんでした。そこで阿久悠・三木たかしの最強コンビで再起を図りましたが、「十九の純情」、「あいあい傘」、「花供養」と3曲ともヒットせず、状況は変わりませんでした。
そこで2人は次の一曲を選ぶために1976年に「365日恋もよう」というアルバムをつくりました。1月から12月まで12曲、日本中の各地に季節を合わせて女の恋を歌う試みで、「津軽海峡・冬景色」はアルバムの最後、12月の青森を舞台にした曲としてつくられたのでした。
翌1977年1月1日、石川さゆりがコンサートで歌って評判が良かった「津軽海峡・冬景色」をシングルカットして発売したところ彼女の最大のヒット曲となり、つづけて5月に「能登半島」、9月に「暖流」とつづけさまに発表し、旅情3部作といわれました。
三連符を多用するメロディーラインは前作の「津軽海峡・冬景色」を踏襲しています。
「津軽海峡・冬景色」は若い女性の失恋の歌ですが愛しい人をしのぶ演歌ではなく、失恋を機に自立していく女性の凛とした後ろ姿が目に浮かびました。そこには阿久悠の「作詞家憲法15条」の中の6条、「『女』として描かれている流行歌を『女性』に書きかえられないか。」という彼の思いが込められています。また、1977年という時代背景は1975年の「国際婦人年」を契機に女性差別の撤廃への行動が世界にも日本にも顕著に表れた時代で、同じく「作詞家憲法15条」の5条、「個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。」という大きなテーマを見事に歌にしています。
「能登半島」では愛しいひとを待ちつづける女ではなく、「一夜だけの旅の支度すぐにつくり、熱い胸に飛び込みたい私だった。」と、そのひとを追いかけて「すべて、すべて投げ出し駆け付ける」恋する女性の切なくも一途な旅の風景をドラマチックに歌い上げ、20年後の「天城越え」のテロリスティックな激情の一端をのぞかせています。
わたしは若い時の石川さゆりの少女のようなナイーブさが好きでしたが、美空ひばりと同じように年を重ねるに連れて本格的な演歌歌手へとシフトせざるを得なかったひとだと思います。
実際、彼女は早くからJポップのつくり手に楽曲依頼するレンジの広い歌手で、彼女の歌唱力もまた演歌だけでは培われない音楽的野心から生まれたものと思います。
島津亜矢は、おそらく美空ひばりの歩いた道でも、石川さゆりが歩く道ではない、さらにいえばちあきなおみの歩いた道でもない独自の新しい道を歩くことになるでしょう。前人未到といってもいいその道は、強いて言えば美空ひばりに近い道で、美空ひばりが晩年に十分に表現できなかった演歌とジャズ、ブルーズがなんの矛盾もなく彼女独自の世界観で融合されている新しい演歌の道です。
先日の「能登半島」を聴いていて、たとえば先日亡くなったアレサ・フランクリンのように、心深くに途方もない悲しみを持ちながら時代に抗い時代の声を聴き時代の声を歌う、「すごい歌手になったな」とつくづく思いました。
実際は、「あなた あなたたずねて行く旅は」のところで一音を裏声で意識的に小さく歌うところで、(わたしの聴き間違いではないと思うのですが)彼女には珍しく音を外したと思いますが、そんなことはどうでもよく、強く弱くメリハリの利いた歌唱で、刻々と変化する女性の切ない感情がちぎれながら通り過ぎていく能登半島の風景が目に浮かびました。

運よく、この歌を歌う映像・音源がユーチーブにあり、聴き比べると、彼女が名作歌謡劇場から座長公演、ポップスのカバーアルバム「SINGER」シリーズ、そして最近の「UTAGE!」をはじめとするポップス番組の経験を経て、加速度的に彼女の演歌が大きく変わりはじめたことがよくわかります。
若い頃の島津亜矢は初々しく、演歌歌手としてはすでに極みに達している素晴らしい歌唱ですが、従来の演歌の約束事を忠実に守っていて、四畳半で歌っているような窮屈さを感じます。
ところが、今回の歌唱にはそんな従来の「演歌」らしいあざとさがすべてなくなり、それでも阿久悠と三木たかしが石川さゆりのために渾身の思いでつくった歌を、若い頃の石川さゆりの瑞々しさと切なさと激しさをそのままに歌ってしまったのでした。
それはおそらく、ポップスの歌唱から自ら学んだものとわたしは思います。そして、もっと才能あるポップス歌手や作り手と交わることで、彼女の演歌は鬱屈した牢獄から解放され、「演歌の革命」といっていい独自の島津演歌へと進化するにちがいありません。
演歌から出発して演歌に帰ってくる、そこが彼女独自の歌の世界なのだと強く思いました。
そして、彼女にとって演歌はたとえば短歌のような定型詩で、ポップスは現代詩なのかなとも思いました。現代詩を歌手の肉体によって表現する星野哲郎に嫉妬したという寺山修司の声がよみがえるようでした。
今日9日のNHK総合「うたコン」で、くしくも阿久悠の歌を歌うとのことで、とても楽しみにしています。

島津亜矢「能登半島」

石川さゆり「能登半島」( 1978年)

石川さゆり「能登半島」

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