玉置浩二の歌唱は繊細な気鳴楽器 島津亜矢の「メロディー」

島津亜矢という歌手はわたしにとって「歌姫」というよりは「シャーマン(巫女)」で、島津亜矢がいま歌いたい歌はどんな歌なのか、歌うことを宿命づけられた歌はどんな歌なのか…、コンサートであれ音楽番組であれ、CDの収録であれ、カバー曲であれオリジナル曲であれ、その歌がつくられる(歌いなおされる)瞬間に立ち会いたいと願う数少ない歌手の一人です。
その曲がカバー曲の場合、ひとつひとつの楽曲には歌自身が隠している記憶があり、そのひとつひとつの記憶をたどり、その記憶を追体験しながら今の時代の新しい物語を作り出す力、それを歌唱力と呼んでもいいのかもしれません。
歌の記憶をたどり、歌が生まれる瞬間に降り立てば、すべての歌は歌われた瞬間からオリジナル歌手の肉体からも書かれた譜面からも遠く離れた歌の荒野に解き放たれ、ある歌は忘れ去られ、ある歌は時代を越えて歌い継がれるのだと思います。
はるか遠く、人間が言葉を発明する前に川のせせらぎや鳥の鳴き声とともに、自らの肉体から声という音をだすことで他者に自分の存在やメッセージを伝えるところから、音楽が生まれたといわれます。若かりし唐十郎の演劇論ではないですが、歌をつくるのは作詞家や作曲家ではなく、歌手の特権的肉体によって歌われ、つくられてきたのだとしたら、わたしにとって島津亜矢は歌うことを宿命とされたこの時代のシャーマンだと言えるのかもしれません。
そういえば、小椋佳は島津亜矢のためにつくった「歌路遙かに」で、「歌の一つで心洗われたりもしませんか 歌のひとつで命救われたりしませんか」と歌わせています。

あんなにも好きだった 君がいたこの町に
今もまだ大好きな あの歌は聞こえてるよ
あのころはなにもなくて それだって楽しくやったよ
メロデイーいつのまに 大切なものなくした

さて、今回は玉置浩二の「メロディー」について感じたことを書こうと思います。わたしは彼女のポップスの歌唱はたしかに完成しているものもたくさんあると思いますが、いまはまだエチュードの段階だと思うものも少なからずあります。
もとより、人それぞれの個性と才能、向き不向きがあるのは承知していて、島津亜矢もその例外ではありえないでしょう。また、わたしの好みや感じ方もあり、そういう意味では歌の善し悪しなどは突きつければ歌詞と楽曲はもとより、歌い手の声質や声量や表現とあわせて、聴く者の好みやその歌と出会ったシチュエーションで決まるものなのかもしれません。ですから、わたしがこの歌に限らず玉置浩二の楽曲を歌いなおしてほしいと思ったとしても、それぞれの感じ方の問題と割り切ってしまえばいいのかもしれません。
「メロデイー」は日本一のボーカリストといわれる玉置浩二の歌の中でも特に難しい歌だと思います。島津亜矢は玉置浩二が好きで、いままでこの歌の他にも「行かないで」、「じれったい」、「田園」、「ワインレッドの心」などをカバーしています。いずれも名曲といわれる歌ばかりですが、実は玉置浩二が歌うことで名曲になったというのがほんとうのところだと思います。その中でも「メロディー」は短くてシンプルで音域も高くないのに、ひとつひとつの言葉が心にしみわたる楽曲で、たしかに彼以外には歌えないと言われるゆえんです。
しかしながら島津亜矢がボーカリストとして演歌と同じかそれ以上に多くの人々を魅了する天賦の才能と実力を備えた歌手と確信するわたしにとって、この歌はまだ完成していないエチュードで、玉置浩二とはちがった場所で音楽的冒険をつづける島津亜矢の旅の途中で立ち止まり、彼女の進化を測る貴重な楽曲だと思います。
というのも、以前からわたしは島津亜矢の管楽器のようにやや硬質でナチュラルな声質が魅力と思っていて、演歌では「影を慕いて」や「悲しい酒」、ポップスでは森山直太朗の「桜」や、「帰らんちゃよか」以来、新解釈で島津亜矢のオリジナルとして完成させた「時代」など、弦楽器系の声質では表現しにくい直接性と、歌でなければ伝えられない切実さが彼女の声質を生かしていて、ジャンルにとらわれずたくさんの歌を彼女が歌える理由のひとつになっています。
ところが、玉置浩二の場合は管楽器でも弦楽器でもなく、強いて言えば彼の喉と身体全体が気鳴楽器といわれるアコーディオンやバンドネオンの蛇腹のふいごのように膨らんだり縮んだりする空間楽器になっていて、そこから来る独特の歌唱は歌詞も曲もとてもシンプルなのに、のどから外に出るビブラートではなく、のどから体の中で震えるビブラートがかすかに漏れるような繊細さといとおしさで歌い語り、やさしい沈黙までもが心に届けられるのです。
もう二度と帰らない青春、大人になることでなくしてしまった夢と友情と恋、もしかすると、大切な友人や恋人が亡くなったと知らされ、通夜や葬儀で心の中で弔辞を一言、また一言かみしめて読んでいるような、悲しみと、もしかするとちょっとした裏切りと、懐かしい人と町、そこに流れる青ざめた時をいつくしむように聞こえてくる歌は…。
願わくば島津亜矢の管楽器的で官能的な刃のような発声法に加えてあとひとつ、玉置浩二の気鳴楽器のような発声法を加えたら、存在感を増す肉感的な低音がより生かされ、これまでやや不得手だったかも知れない楽曲へのチャレンジも可能になり、フィールドが一気に広がるのではないかと想像します。
これも最近、強く感じることですが、島津亜矢の演歌の歌唱はずいぶん前に完成していたはずが、すでに10年ほど前から獲得したゾクッとする肉感的な低音がポップスの歌唱によって磨きがかかり、最近の彼女の演歌歌唱はかつてのような若さに任せて(それもまた魅力的でしたが)歌い切るのではなく、歌い残すことで聴く者の心にいつまでも甘美なやけどを残します。
演歌で獲得できた歌を詠む力をポップスで発揮するようになるには、あと少しの時間が必要なのかもしれません。歌に隠された記憶と物語を引き出すために、演歌・歌謡曲とは比べ物にならない無数の楽曲を歌うことで、もう一度丁寧に歌を詠む力と新しく多彩な発声法にチャレンジしてほしいと願っています。
もちろん、今の歌唱でなにか問題があるのかと言われれば最終的に好みの問題とされるでしょうし、たしかに今のところ彼女がどれだけ努力をしてもいまだに「演歌歌手・島津亜矢」のレッテルをぬぐえないのも事実で、それならば演歌歌手のポップスとして高い評価を得ていることで満足すべきなのかもしれません。
彼女の小さな成功例が刺激となったのか、最近の若い演歌歌手がポップスを歌う機会が増えましたが、ファンのひいき目からくる失礼方を承知で言えば、かろうじて市川由紀乃を除いてほとんどは島津亜矢のポップスとは似て非なるもので、かつては島津亜矢もそうであったかもしれない「演歌歌手のお座敷芸」の域を出ないと思います。それだけでなく彼女彼らがポップスを歌う姿勢に「演歌歌手は何でも歌える」といったある種の思い込みを感じて、がっかりしてしまいます。
その意味でも「孤高の歌手・島津亜矢」の苦闘はまだまだ続きそうで、だからこそ音楽の女神にいざなわれ、道なき道を歩く島津亜矢をいとおしく見守り、あとを追いかけようと思うのです。

島津亜矢【公式】歌怪獣チャンネル

島津亜矢『メロディー』

玉置浩二 『メロディー』Live at Tokyo International Forum 1997/11/22

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