「高松次郎 制作の軌跡」

 少し前になりますが8月5日、「高松次郎 制作の軌跡」を観に行きました。大阪中之島の国立国際美術館で開催されたこの展覧会はひとりの芸術家の回顧展には違いないのですが、1960年代から晩年の1990年代後半まで、わたしにとって刺激的な芸術家でありつづけた高松次郎の残した作品をあらためて見るととても回顧展とは思えず、あくなき好奇心と探究心を駆り立て、次々と実験と冒険をしつづけた彼の息づかいが今も建物全体にあふれるようでした。
 1949年から1963年まで、読売アンデパンダン展という、無審査出品制の美術展覧会は今では考えられない画期的なもので、芸術表現の発露を無条件に保障する最大級の自由さから数多くの若い作家が結集し、次々と刺激的な作品が生まれました。
 高松次郎はまさしく、その時代の風潮から制作活動を始めた時代の寵児のひとりで、赤瀬川源平、中西夏之との3人グループ・「ハイ・レッド・センター」(それぞれの名前の頭文字をもじったグループ名)の一員としてもアバンギャルドの先頭を走っていました。

 高校時代、「絵を描かない」美術部員だったわたしは、当時は60,000部を発行していた「美術手帳」に掲載されていたシュールレアリスムやポップアート、ネオダダイスムなどにかぶれていきました。1960年代はわたしにとってだけでなく美術がもっともキラキラしていた頃だったと思います。
 心を硬くしながら何も楽しいことのない工業高校に通っていたわたしでしたが、美術部に入ったことで数少ない友人もできました。そして、当時のわたしにとって青春のバイブルともいうべき「美術手帳」の毎月の発行を心待ちにし、心急いで手に入れた真新しい美術手帳を回し見ながら、一人前の画家や評論家になった気分で掲載されている現代美術について激論を交わしたものでした。
 その頃のわたしがもっとも気になっていた作家のひとりが高松次郎で、「点」、「紐」シリーズにつづく「影」シリーズが彼の作品との最初の出会いでした。
壁やドアに人の影がリアルに描かれている、いやたしかに影がそこにあるのに、その影をつくる人間や物はいないのです。ひとや物はいつその場から消え去ったのか、影だけがずっとそこにいたのか、光が無ければ存在しない影は、光が当たっていたはずのひとや物がほんの一瞬前には生き生きとそこに在り、時間のねじれが影を残す一瞬を永遠に定着させているのでしょうか。

 若い頃は「だまし絵」のようでなんとなく面白いと思っていただけですが、いま改めてこれらの作品群を見ると、単に影だけが残された不在の空間というだけでなく、たった今まで存在していた不在の匂いとともに時間が無数の粒子に粉砕され、その粒子の一粒一粒にアリバイとしての影が付着し、不在そのものを記憶しているようなのです。
 そこにあるのは世界の廃墟ではなく、むしろ近代が構築してきた世界のすがたに対する強烈な異議申し立てというべきか、圧倒的な「不在」で満ち溢れているのでした。寺山修司の「奴婢訓」という芝居のテーマだった「世界はたったひとりの男の不在で満ち溢れている」という言葉を思い出します。
 「点」シリーズは、文字や図形としての意味そのものであるはずの点が、さまざまな形と素材によって描かれ造形されることによってそれぞれ固有の実在になってしまう時、皮肉にも「点」という概念は剥奪され、不在としての「点」のみが表出されるのでした。
 彼のこの頃の作品はおおむねその逆説によって成立していて、たとえば瓶にぎっしりおしつめられた紐は瓶の外形の中でもつれるように絡みながら実在してしまい、瓶としての用途や在り様を剥奪されてしまいます。
 そして、「陰」シリーズの後の「遠近法」では、わたしたちが見る世界が遠近法によって支配されていることを暴くように、テーブルやいすが遠近法で見えるままにつくられています。遠近法的に自然に見える方向から見ると誇張されていることもわからないほどなのですが、横から見たり反対方向から見ると遠近法の法則を実物でつくるととんでもないものになり、テーブルも椅子もベンチも到底利用不可能な役に立たない物になってしまうのでした。
 このシリーズあたりから、高松次郎は「不在」によって世界の「常識」を告発することから、世界の「常識」を成立させるためには不要とされる「もうひとつの実在」を必要とすることを告発しているように思います。遠近法を成立させている一方向だけの視線は大きくいえば近代の権力構造であり、その権力構造は遠近法的な世界観から排除され、抑圧された無数で多様な物や事やにんげんたちによって支えられているのだと思います。
 高松次郎のあくなき実験は「波」、「弛み」のような視覚的な錯覚と時間のねじれが生み出す多様な視点から、さらに「単体」、「複合体」、「平面上の空間」、そして「形」へと、権力としての「視ること」自体からも解放され、実在の中にあるいくつもの実在そのものによって世界を再構築しようと試みます。
 街路樹の中に家の柱がかくれていると感じて、上端だけに四角く柱上に切り抜いた材木を何十本も並べた作品や、煉瓦や大理石の中だけを細かく粉砕し、外見をとどめた元の煉瓦や大理石にもどす「単体」は、すでに用途からは取り返しのつかない場所に来てしまっても木やレンガや大理石でありつづける物たちの「不幸」に満ち溢れているようです。
 そこには「近代主義」、「啓蒙主義」に対する一貫した異議申し立てがその根底にあったとわたしは思います。

 今回の展覧会を観て、日本も世界も「変革」への幻想に明け暮れた1960年代から高度経済成長と幸福幻想におぼれた1980年代まで、近代の延長もしくは近代の民主主義化としての現代に早くに絶望した一人の作家が「大きな物語」が終わった世界の在り様を一生懸命探し続けた足跡は、今をいきるわたしたちを挑発し続けているのだと思いました。
 高校時代、高松次郎や荒川周作などの野心的な作家と、それを磁場に繰り広げられた東野芳明、中原裕介、針生一郎、宮川淳などの美術評論家たちの論戦、その中でも東野芳明と宮川淳の「反芸術」に関する大激論など、わたしには今でもちんぷんかんぷんで理解できるというには程遠いですが、すくなくともその議論には美術や芸術といったジャンルでの「専門的」な議論にとどまらず、「世界はどうあり、どうあるべなのか」という現代社会そのものに対する議論でした。
 あの時代、美術は今流行の「アート」とはかけ離れ、時代の変革の野望が入り乱れた、とても刺激的でおしゃべりなものでした。その中心にいつもいたのが高松次郎だったのだと、いま改めて思います。
 最近また美術館へ足を運ぶようになったわたしは、街の喧騒から切り離された静かな空間にほっとする反面、展示されている作品とはまったく関係なく、美術館そのものが墓場に思えることがあります。こんなに静かでいいのか、係員に見張られながら少し薄明るい空間でまどろんでしまいそうになり、最初からぎらぎらした野心や好奇心などは街の喧騒に捨ててきて、手垢のついた解説に自己満足するだけにここに来ているのだろうか…と。
 「高松次郎 制作の軌跡」は、そんなわたしのまどろみをたたき起こしてくれたのでした。

 8月のイベントを控えて忙しく、最終日に行くことになり、ご案内ができませんでした。
 この日は友人と2人で行きました。いつもなら絵を描いている人と行くことにしていましたが、高松次郎となるとかなり拒否反応を持たれるかもしれず、妻からは「ひとりでいったほうがいい」といわれながら、最近林英哲やカルメンマキ、中川敬などつづけさまにライブに一緒に出かけているKさんを誘いました。Kさんはおそらくあまり絵にとくに関心がないのでしょうが、とびぬけた読書家で社会思想関係の本をよく読んでおられるので、案外高松次郎にぴったりかもしれないと思ったのです。
 案の定、わたし以上にひとつひとつの作品を熱心に鑑賞するだけではなく、3500円もする図録まで買い、作品の本質に迫るコメントを話してくれました。

1970年の万博の時に、インフォーメーションフロアーのトイレの壁に「影」が描かれました。
「遠近法」シリーズのひとつ。「テーブルといす」
「単体」シリーズ。煉瓦のほか、大理石や木をくりぬいたものがあります。

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