「福祉の世話にはならない」と頑張った母と田村智子さんのお話

1997年7月13日の早朝、市民病院の母の病室から見える箕面の町は山の緑がきらきらかがやいていました。母は一瞬わたしの顔を見つめ、何か言いたそうな表情をしたと思うと、スーッと生きる気配を消しました。そして生きていた間の苦悩に満ちた年老いた表情が一瞬の歌に消え、澱んだ瞳は碧く透き通りました。
福祉サービスを利用してもらうことを躊躇する兄の家から箕面に来てもらい、老人保健センターのデイケアサービスと訪問介護を利用しながらのたった13日間の箕面市民だった母を抱きしめ、ありがとうとごめんなさいをかわるがわるにつぶやきながら泣きました。
シングルマザーとしてわたしと兄を育てるためだけに生きてきたといえる30代から86歳までの彼女の人生は、私の想像もできない人生だったことでしょう。
母に言い寄る男も、また好きだった男もいたかも知れません。そういえばタンスの奥に一冊のポルノ雑誌を発見した時、子ども心にわたしのおよばない女性としての一面を垣間見たこともありました。
「子どもたちに肩身の狭い思いをさせたくないから、福祉の世話だけにはならない」と、たった一人で朝早くから深夜まで大衆食堂を切り盛りしていた母は、片手に山ができるぐらいの薬を飲みながら、兄とわたしを高校に行かせてくれました。
そんな母が、わたしと兄を育てるためだけに生きぬいたことに、どれほど感謝しても感謝しきれない母の愛を感じ、涙がこぼれます。しかしながらそれと同じ重さで、彼女の人生はほんとうにそれでよかったのかと考えてしまうのです。わたしは不憫な子でも、母が極貧の中で苦労して育ててよかった思える親孝行の息子でもありませんでした。
黒い土と牛フンと鉄条網と280円のラジオと添加物いっぱいのみかん水。進駐軍のジープとアメリカ兵とキャデラックとドッジボールとキャッチボールとチューインガムと…。
わたしが物心ついたころは貧乏ながらも明日へのおぼろげな希望と夢をふりかけた戦後民主主義の幻想と、まだ戦争の傷跡が残る風景とが入り混じっていました。そして、「福祉」はぼんやりとした空を不安定に飛ぶグライダーのようにくるくる旋回していましたが、わたしたち親子の元にはおりてきませんでした。
先日の共産党の演説会で田村智子さんが語ってくれた生活保護の話を聞きながら、わたしは子どもの頃の遠い思い出をなぞっていました。「福祉の世話にだけはなりたくない」という必死に働き必死に生き、薬漬けになってしまった母への感謝は忘れるものではありませんが、あの時代、困っているひとに「福祉の世話にだけはなりたくない」と言わせてしまう、そんな「福祉」しかなかったのだと思います。
たしかに時代は変わり、今はあのころとは比べ物にならない「福祉制度」をこの国はつくってきたのかもしれません。しかしながら、数えきれないカタカナ言葉でメニューはいっぱいでも、生活保護をめぐる田村智子さんの国会での質問や先日のお話を聞けば、福祉が進むとか遅れているということではなく、もっとも大切なことであるはずの当事者へのまなざしと、福祉が特別な人のためのものというところは何ひとつ変わっていないと言っても過言ではありません。
田村智子さんは国会質問でも先日の演説会でも長野県のパンフレットを紹介し、「生活保護は国民の権利を保障するすべての方の制度」と読み上げ、特に「すべての方の」ということが重要であると指摘されました。わたしたちもまた箕面市行政に、福祉はそれを利用する人のための特別なものではなく、すべてのひとのためのもので、福祉を必要とする当事者が未来の福祉制度をつくり、担うのだと主張してきました。
2012年、芸人の母親が生活保護を不正に受給したのではないかとマスコミが取り上げ、それを受けて自民党の議員が国会で追及し、芸人が記者会見で謝罪し一部を返還するも、最終的に母親が受給申請を取り下げるということがありました。
この騒動は、母親への生活保護の受給は違法ではなかったのですが社会的制裁を受ける結果になってしまいました。わたしはそもそもこの国では公的にも私的にも家族単位を基本にしていて、家族の絆を過度に美談としたり家族への社会的責任を要求する風潮のもとでDVや家庭内暴力でつらい思いをしたりと、深刻な問題が起こっています。
生活保護の制度も少しずつ改善されてきましたが、親族の扶養のしくみは廃止されていません。わたしは親と子は別人格で、あくまでも本人の現実から出発するべきで、ましてや窓口でできるだけ申請をさせないようなことはあってはならないと思います。
一部の政治家やマスコミが「生活保護は不正だらけ」と、生活保護受給者への偏見と差別を煽り、問題にされた芸人は一時仕事がまったくなくなり、今でも深夜のバラエティー番組ぐらいしか出演しなくなりました。最近、芸能人の不倫が異様にバッシングの対象になっていますが、その芸人の場合は本来なら賠償請求を自民党の議員とマスコミにしてもいいのに、一方的に彼の問題とされてしまっています。
2012年という年は2008年のリーマンショックからようやく抜け出したものの、非正規雇用が4割近くと経済格差が広がり、所得の低い生活困窮者から、生活保護などの福祉助成を受けている人に対するねたみのような感情がくすぶり始めていました。この年の12月に自民党が総選挙で圧勝し、第二次安倍政権が発足、アベノミクスによる経済復興を掲げましたが、結局は格差が広がるばかりで、現在でもなんとか今の生活を維持するのが精いっぱいというひとたちにとって、その感情はより高まっているように思います。
2012年5月の事件はちょうど民主党政権末期でもあり、自民党の議員にとっては一生懸命働いても報われず、その仕事にしがみついていなければ自分の生活も家族の生活も成り立たないと身をかがめて暮らすひとたちの鬱屈した不満のはけ口としては絶好の事件だったのでしょう。2015年には維新の会が発足しますが、この事件で噴出した「ねたみ」を利用した政治は「身を切る改革」と称して公務員を切り捨ててきた維新の政治手法と重なって見えます。結局のところ、役所の窓口も委縮し申請許可を減らし、今日明日の生活のめどが立たない生活困窮者には生活保護の敷居が高くなり、あいつぎ自殺に追い込まれたひとも少なからずいたはずです。
田村智子さんの「生活保護は国民みんなの権利で、躊躇せず権利をかちとろう」という主張を、ずいぶん前から実行してきた人たちがいます。1970年代から活動してきた障害者運動の先達です。彼女彼らは、もし働く者食うべからずというなら、社会が自分たちに働く権利を用意できないのだから、自立生活をするために生活保護をとるのは当然の権利だといい、ある人は「今日から区役所に住む」と区役所のロビーに布団と七輪を持ち込み、魚を焼いて役所を煙だらけにしたそうです。
彼女彼らにとって、母の言葉ではないですが、「福祉の世話にはなりたくない」と躊躇する必要も余裕もなかったのでした。かつてイギリスの一人の女性が女性の参政権を求めてダービーの競技場に飛び込み抗議の自殺をしたと聞きますが、その過激な行動が何十年もたって参政権を実現させたように、彼女彼らの過激と言われた行動が今、障害者に限らず一般の生活保護を申請しようとする人々の生きる勇気を耕したのだと私は思うのです。
あとひとつ、田村智子さんは2013年と2019年に国立感染研究所の職員と予算を削減してきていることに、国境を越えた人と物の移動はますます拡大し、新たな感染症が発生するリスクが高まっていて、感染症対策は国の安全保障政策そのものではないのかと、国会質問をされていて、今年のコロナショックで予言が的中したと海外のマスコミでも話題になっています。
この問題も彼女は国立感染研究所だけではなく、新自由主義のもとで公務員をどんどん削減してきていることに警鐘をならしていると話されていました。
保健所の数も職員も減らし、病院にも独立採算を求め医療体制の削減の結果、コロナショックにおける無数の死者と失業者を生み出した世界のグローバリズムと新自由主義は、この災害が人災であることを教えてくれています。
わたしたちは今こそ路石の下の大地の声に耳を傾け、里山のみどり豊かな香りにいざなわれ、誰ひとり置き去りにしない優しい町箕面をつくりだそう。明日に希望をもてる政治を箕面の町から広げていこうと、田村智子さんの力強いメッセージがグリーンホールにいつまでも響いていました。
わたしはこの演説会に参加してみて、「いのちとくらしを守り、子どもたちの冒険を応援し、保健医療を立て直す安心安全の町づくり」が国の未来を耕すことを学びました。
そして、夢見る共産党が好きになりました。
誰の身を切る改革なのかよくわからず、実は20世紀型の成長神話をふりまく維新の会が能勢の町にもひたひたと迫ってきている今、箕面の市長選がとても心配です。
ますだ京子さん、中西とも子さんとともに、共産党の奮起に期待して、できることはほとんどないけれど、応援したいと思います。

生活保護は国民の権利 2020年6月15日参議院決算委員会 田村智子(日本共産党)

国立感染研の質問をした理由 田村智子(日本共産党)

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