ありがとう! 追悼 藤澤亜希代さん

圧倒的な信頼から生まれる、助け合いと共に生きる勇気を教えてくれたひと

青春の海岸線をいっせいに
無数の鳥たちが飛び立っていく
風の行方をたどる森の合唱
光の粒にのけぞる波のピアノ
つないだ手をはなす
瞬間のぬくもり
去りゆくものに手をふって
残されるものたちが語り始める
生き急いだものたちの
夢と願いをかくして
季節はゆっくりと春をそだてる

 豊能障害者労働センターの藤澤亜希代さんが亡くなりました。51歳という早すぎるお別れでした。
 藤澤さんは箕面第四中学校から箕面養護学校(現支援学校)を経て、1990年に豊能障害者労働センターにやってきました。
 この当時は(今も)小中学校では共に学ぶ教育が実現していましたが、高校の門は固く閉じられていて、養護学校に進学せざるを得ないのが現実でした。なんとかその壁を破りたいと障害者団体や学校の教員団体が大阪府行政や大阪府教育委員会との交渉を続けていました。
 今でも障害児が普通学級で学ぶ権利は著しく奪われていて、今年、「障害者の権利に関する条約」にもとづくインクルーシブ教育、多様な子どもの学ぶ権利を保障する教育を直ちに進めるよう国連の勧告が出るほどです。
 一方で養護学校に行くことで地域との関係が絶たれることのないように障害者の働く場をつくりだそうと、「そよ風の家」や「ZEROの家」、「たんぽぽ共働作業所」が設立され、一足早く活動を始めた豊能障害者労働センターをふくめたネットワークもできました。
 藤澤さんが労働センターのスタッフになった1990年という年はわたしたちの要望に応えて、財団法人「箕面市障害者事業団」が設立され、活動をはじめた記念すべき年でもあります。藤澤さんはそんな大人たちの右往左往を横で見ながら、自分の人生の行方を大人たちにゆだねず、労働センターの一員として生きていくことを選んだのだと思います。
 藤澤さんは養護学校在学時から労働センターの食堂「キャベツ畑」に毎日のように現れて、キャベツ畑担当の三枝さんの手を放さず、「卒業したらよろしくね」と就職活動をしていました。
 1982年に設立した労働センターの初代事務所は築30年のくずれかけた古民家でしたが、箕面市民をはじめ全国の人々からの募金に助けられ、1988年5月にプレハブだけど新しい事務所に移転した頃でもありました。

藤澤さんの登場は機関紙「積木」を独自メディアとして全国に発信するきっかけとなった

 藤澤さんが事務所に来るようになると、事務所の空気がガラリと変わりました。それまでは粉せっけんの配達とカンパ活動でやりくりしながら、ようやく地域の拠点としてお店をはじめたころでしたので、事務所は外まわりやお店の休憩場所でしかありませんでした。
 毎日の仕事はじめも10時ぐらいからそろそろ集まるという感じでしたが、彼女はなんと8時半に事務所に到着し、玄関が開くのを待っているのでした。10時ぐらいに来てくれないかとお願いするわたしたちの方が実は世間からはずれていることに気づき、なんとか折り合いをつけて始業時間を9時半から10時にして、みんな出勤時刻を守るようになりました。とにかく働き者で、彼女につられてみんなが「労働者」になっていくのが新鮮で、おかしくも楽しい変わりようでした。
 その頃、労働センターは障害のあるひともないひとも給料を分け合うだけのお金を得るためにオリジナル商品を開拓し、制作プロデュースから品質管理、営業販売まで地域での対面販売だけでなく、通信販売を始める準備をしていました。オリジナル商品としては、すでに数か所の障害者団体と共同制作していたカレンダーがありました。
 通信販売を始めるにしても、単に商品を販売するだけではなく、学校でも職場でも地域でも排除されてしまう障害者の現実を伝え、わたしたちの切ない夢と冒険を一緒に共感してもらおうと、それまで地域活動に追われて後回しになっていた機関紙「積木」を情報発信の起点にできないかと考えていました。
 まさにその時に藤澤さんが登場したのでした。それまではなかなか発送作業が進まなかったのですが、彼女はとにかく早い早い、それにつられて発送作業が一気に進むようになりました。
 そこでわたしたちは全国の学校名簿を購入し、当初はボランティアの方たちもお願いして宛名を手書し、発送することにしました。もちろん、コストは大幅に膨らみましたが、時代がよかったのか発送した学校から次々と申し込みがありました。
 藤澤さんは「積木」の発送作業がつづく間はご機嫌よろしく、無くなると次の印刷をしている夜にも「もうできてる?」と催促の電話をかけてきました。
 機関紙「積木」は、今では格段に商品が増えた通信販売事業をはじめ労働センターの活動を知らせる強力なメディアであるとともに、障害者スタッフの大切な仕事でもあります。
 1990年の藤澤さんと「積木」の出会いは、労働センターが自前のメディアを大きく育てるきっかけになり、今の労働センターの活動の原点になったのだと思います。

みんながいる、わたしもいる。豊能障害者労働センターをこれほどまでに愛した藤澤亜希代さん

 今振り返ると藤澤さんもまた、はるか遠くに住む「積木」読者から続々と返事が届いたり商品の注文が届いたりすることで、自分の働きかけの反応がすぐに帰って来ることをうれしく思ったのでしょう。プライベートに労働センターのみんなに手書きの手紙を毎日書いたり、仕事が終わって家に着いた途端に電話をかけ続けたりするようになり、それは身体の調子が悪くなる前まで続いていたようです。
 彼女が学び、そしてわたしたちに教えてくれたことは、自分のまわりのひとも、遠く離れまだ出会っていないひとも、みんな「ともだち」だという圧倒的な他者への信頼を決してなくさないこと…、なんの根拠もないけれど、その楽天的な信頼感を持ち、だれひとり置き去りにせず助け合い、共に生きる勇気を育てることでした。
 毎日事務所のポストに配達される郵便振替用紙をみんなで競って取りに行き、中を開いてお金の振り込みとコメントを読んでにんまりしていたこと。労働センターの障害者スタッフはあの頃から、ほんとうにお金とメッセージが大好きなのです。
 1992年、成人式に行くことになっていたのに、晴れ着を着るのがめんどくさくてお母さんとけんかして、そのまま労働センターに来た事。その日はイベントが近いので出勤していたので、近所にドーナツを買いに行き、みんなで成人の日のお祝いをしたこと。
 行政からの指示でサポートするスタッフとサポートされる当事者のリストを作った時、藤澤さんはサポートされる方だと言われてとてもショックをうけていたこと。彼女だけではなく、他の障害者スタッフもみんな自分がサポートする方と思っていたこと。実際、労働センターでは障害者とされているひとが助け合っていて、障害者の権利とは何かを彼女彼たちがあらためて教えてくれたこと。
 いのちの火が消えそうになっても最後まで労働センターのみんなといたいと要望し、自宅から週に何回か事務所に来て「積木」の発送をしていたこと、わたしも妻とその頃に事務所に見舞いに行きました。
 藤澤さんは、たったひとつのこと…、「わたしはここにいて、そしてみんなといたい」ということを最後まで表現し、その思いが労働センターの事業をここまで広げてくれたのだと思います。そこには障害者が福祉サービスを利用する対象でも、さらには雇用されている立場でもなく、労働センターを担い、経営を支える当事者であることが実感できるのです。
 棺に横たわる彼女の少女に帰ったような安らかな顔に手を合わせながら、思わず涙が溢れました。これほどまでに労働センターを愛した藤澤亜希代さんは、少し短かかったけれど、人生を全うした人生だったと確信します。
 彼女の勇気に支えられ、一緒に活動できた日々を振り返り、感謝と共に誇りを感じた夜でした。
 藤澤亜希代さん、ほんとうにありがとう。