豊能障害者労働センター2014年バザー2

わたしは長い間バザー、とくに福祉バザーに偏見を持っていました。いらなくなったものを提供し、それをまた買うことで障害者のためのお金を生み出すだすことは、「富の再分配」という手法で行われる国の社会保障の市民版と言えます。そのことだけを見ればとても良いことにちがいないのですが、再分配する富自体を生み出す場所に障害者はいるのかといえば、ほとんどの障害者は排除されている現実があります。
そして、福祉の領域に「追いやられた」障害者のためにと開かれるバザーの現場に、最近ではちらほらと見受けられるものの障害者があまりいないこと、その売り上げがそのグループの運営資金となるものの、障害者の所得保障には程遠いことなど、さまざまな疑問が浮かんでくるのです。
豊能障害者労働センターは雑然とした町の片隅で、「人権」という視点は持ち合わせていたものの、福祉や社会保障とは無縁な所から活動を始めました。「障害のあるひともないひとも共に働き、共に運営し、みんなで給料を分け合うことで障害者の所得をつくりだす」という活動の目的・理念はそのまま運営の在り方を規定することになりました。
そのひとつは、事務局会議にも運営会議にも障害者が参加することで、当時もまたおそらく今でも障害者スタッフの親から「なにもわからへん子が参加しても意味がない」と批判されてきました。またさまざまな障害を持つスタッフ全員がほんとうの意味で参加できる会議の在り方にはなっていないことは承知していましたが、そんな「世間」の風当たりに立ち向かったのは障害者スタッフ自身で、会議の日程の把握から会議前の弁当の調達まで、障害者スタッフ同士が助け合い、会議への参加を楽しみにするようになりました。もっとも今でも会議が嫌な障害者には不参加を認めていると思います。
設立当初はスタッフも数人で粉せっけんの袋づめと配達しか仕事がなく、脳性まひの障害者も一緒に全身粉せっけんにまみれながら袋詰めをしていました。こう書けばつらい仕事のようですが、時々不随意運動で粉石けんだらけの床にころがり、「クククッ、ガハハ」と大笑いしながらの楽しい仕事だったようです。
そのうちにカレンダーなどの通信販売をはじめると、今もつづく機関紙の発送作業が全員の仕事になりました。たしかに編集作業などは一人二人の健全者スタッフが担当しているようですが、ほとんど自前でしている印刷は、当初は健全者スタッフがしていたものを今は障害者スタッフがすべてしています。

障害者、健全者にかかわらず最初は一部のスタッフがしていた仕事をみんなが担うようになるのは豊能障害者労働センターの仕事のやり方で、車いすを利用する障害者の介護からお店の運営まで、それぞれが少しチャレンジしてできそうならばその人たちに担ってもらうという感じで、わたしなどが「これはちょっとむずかしいかも」と思う仕事も、いつのまにか障害者が担っていることが数多くあります。豊能障害者労働センターには特別に職場改善などの専門家はいないのですが、みんながそれぞれできることやできそうなことをやっていく、とくに障害者同士の学びあい、伝え合うことが当たり前のようになっていることにはびっくりします。
それこそが「共に担い、共に働く」ということで、32年前に高く掲げた理念は少しずつ障害者自身によって現実のものになっていったのでした。
そんなふうに進めてきた豊能障害者労働センターの「仕事の流儀」は、バザーにおいて見事に生かされ、またバザーによって育てられることになりました。
1995年の阪神淡路大震災を機に、バザーは障害者の所得をつくりだすためだけではなく、売り上げの一部を自然災害によって被災した障害者への支援金にするとともに、非常時の救援活動から取り残される障害者の現実を訴えたり、時にはアフガニスタンでの医療、灌漑、農業によって人々の命と生業と暮らしを支援する活動を続けるペシャワール会への支援金にしたりしてきました。
実際のところ、「障害者の働く場」としての豊能障害者労働センターの運営は厳しさをましているはずなのですが、それよりもだれもが安心し、幸せに暮らせる平和な社会を願う世界のひとびととつながっていこうとする静かな決意を、豊能障害者労働センターはバザーによって学んだのだと思います。

ほんとうに、バザーの仕事ほど豊能障害者労働センターが培ってきた「仕事の流儀」が活かされる事業はありません。
まず最初は家々のポストにチラシ入れ、次にチラシを見てバザー用品の提供の電話応対、回収伝票を記入し、手製のカレンダーに回収件数を記入。次は車で回収し、それらを専用の倉庫へ、倉庫では服、かばん、小物などに仕分けし、値段を付けて段ボール箱に詰合せます。今は3か所になったリサイクルショップに持っていくものと並行してバザーに出すためのストックを天井近くまで積み上げます。
これらの一連の作業すべてに障害者が携わり、長年の経験から障害者スタッフの熟練は相当なものです。そして、すでに32回も続けている春のバザーなので、この頃になると全国から宅配便も届きます。バザーが近づくと毎日送られている宅配便を開け、品物の整理と礼状書きも障害者が担当しています。
これら一連の仕事をリレーしながらひとりひとりが全体の流れの中で自分の役割をよく知り、だれひとり取り残されることなくこのハザー事業を実行する豊能障害者労働センターのひとたちを見ていると、「障害のあるひともないひとも共に働き、共に運営し、みんなで給料を分け合うことで障害者の所得をつくりだす」という理念が見事に注入され、実現しているとわたしは思います。
わたしは以前、稲葉振一郎・立岩真也共著・「所有と国家のゆくえ」に関する記事で「機会の平等」(小さな政府)でも「結果の平等」(大きな政府)でもなく、「参加の平等」を保障することについて書きました。
障害者を排除した経済活動による富の一部を、排除した障害者に再分配する仕組みがすでに壊れてしまっている今、バザーをはじめ障害者が参加する経済活動から生まれた富をみんなで分けあう豊能障害者労働センターの活動は、資本主義でも国家社会主義でもない新しい社会の仕組みをつくりだす希望のひとつであるとわたしは思います。


元関西学院大学教授・大谷強さんが亡くなられました。大谷さんは大阪府立大学教授時代から、豊能障害者労働センターの活動を支援してくださった方で、「ノーマライゼーション研究会」の論客でもありました。
設立当初の1980年代、わたしたちは一般企業に障害者が就労することが本来の姿で、豊能障害者労働センターの活動はそれを補完する二次的な存在ととらえ、いずれは解散する方が望ましいとも考えていました。
一方、1980年代はサーチャーイズムやレーガノミクスの福祉の削減(「小さな政府」)が席巻し、日本でも2000年代の小泉政権は「聖域なき構造改革」のもとで福祉サービスの削減を打ち出していました。
福祉を削減する小さな政府にも福祉を充実させる大きな政府にも障害者は福祉の対象でしかなく、一般企業への就労の権利を著しく奪われることにはちがいがないとわたしたちは思いました。
そして、ほとんどの障害者が一般企業への就労から排除されてしまう現実から、障害者自らが事業を起こすことで障害者の雇用と所得をつくりだす社会的企業やコミュニティビジネスとして、豊能障害者労働センターは自らの存在意義と活動の意味を見直すことになりました。
豊能障害者労働センターが行きつ戻りつ思いまどうその時代に、大谷強さんは理論的裏付けと勇気をわたしたちに届けてくださったのでした。障害者市民自らが社会や街づくりを担い、市民から行政を通って市民にお金が流れるだけではなく、市民から市民へと直接お金が流れる顔の見える地域経済の可能性を教えてくださいました。
また、毎年カレンダーを100本買ってくださり、学生さんや卒業生や友人にプレゼントしてくださり、豊能障害者労働センターの活動を応援してくださった恩人でした。
大谷強さんのご冥福をお祈りいたします。

豊能障害者労働センター代表 小泉祥一さん 
豊能障害者労働センター 梶敏之さん

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