この子を市役所でやとってくれへんやろか

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.2
この子を市役所でやとってくれへんやろか

子どもたちのいく度目かの夏は遠く、深まる秋。校庭の木々たちはもう冬の気配を感じるのか、長い影をゆらしています。通りに面した学校の門の前で、数人の障害のある子どもたちが立っています。もう授業が始まる時刻です。門の中へ消えていく他の子どもたち。
養護学校のバスがやってきます。ガチャッとドアが開く音がひときわひびます。しばらくしてバスが動き出すと、門の前の子どもたちはもういなくなっているのでした。
学校の門からバスの乗り口までの3メートルの歩道、それをへだてて消えていく2組のこどもの未来は、このたった3メートルにひきさかれているのでした。

1981年、小泉さんと武藤さんの出会いから労働センターが生れようとしている頃、もうひとりの脳性まひといわれる少年とその母親が、この街のどまんなか、箕面市役所のぶあついガラスのドアを見つめていました。
梶敏之とその母親、尚子の2人でした。敏之さんは箕面市内の中学3年、小泉さんと同じく、来年卒業をひかえていました。
尚子さんは、障害のある子どもの母親とくぐりぬけてきたいくつもの切ない夜の中でたったひとつのことを確信していたのでした。
敏之さんが生きていくのは、この街の中にしかない。
障害者とその母親、家族たちに向けられる世間の目は、憐れみと差別に満ちていました。明日のない袋小路に追い込まれ、時には自分の死とひきかえに子どもの生死をきめてしまう事件が、時々新聞の片隅で報じられていました。
尚子さんもまた子どもを背中に背負い、医者通いをくりかえし、かすかな希望の糸をたぐっては切れたぐっては切れ、子どもの将来に悲観したこともあったかもしれません。
けれどもそれを打ち消してくれたのもまた、敏之さん自身の親ゆずりの明るさだったようです。
この子の将来は、この街に解き放つことで見えてくる。
子どもの将来を思う母親の切なさは、時には信じられないほどの爆発力でまわりのひとびとをまきこみ、ちょっとやそっとで開きそうもない重い扉をこじあけることだってあるのです。
尚子さんはそんなひとでした。

それはまず、地域の保育所入所をへて地域校区の小学校への入学でした。彼女は市役所にかけあい、教育委員会につめよってそれを実現しました。
箕面ではまだめずらしかった障害児の地域校区の小学校への入学は、あとにつづく障害児とその親たちをどんなに勇気づけたことでしょう。
それから9年、地域校区の中学校卒業をむかえて敏之さんの進路を見つめる尚子さんの目には、この街で生きる敏之さんの姿しか映りませんでした。
高校進学ということも考えなかったわけではないでしょう。
その場合は養護学校ではなくあくまでも普通高校への就学でしたが、高校の門が障害者に対して固く閉じられていた現実以上に、その3年間を尚子さんが待てない理由も、わたしたちはあとになって知ることになるのでした。
彼女には生き急がなければならない事情があったのです。
彼女は車いすのハンドルをかたくにぎり、ガラスごしに市役所の中を見つめていました。
「この子を市役所でやとってくれへんやろか」。他人に言われるまでもなく無理なことだと思わないこともありませんでした。けれども、この街で生きていくわが子の姿を思えば思うほど、彼女にとってそんなに無理な願いとはどうしても思えなかったのでした。
市民の福祉をつかさどる市役所に障害者がいてもいいじゃないか。いや、いなければならないのではないか。
障害者でなければ担えない行政の仕事があるはずだ。彼女の確信は、現実がそれをこばもうとすればするほど、たしかなものとなっていきました。

そんな時でした。彼女にとっても敏之さんにとっても決定的な出会いがやってきました。国際障害者年箕面市民会議のひとたちとの出会いでした。
空の星のひとつひとつが個々のかがやきをきわだたせながら星座を形づくるように、この街の中で吸い寄せられるようにいくつかの出会いが、やがて来る巨大な夢をふちどっていくことになります。労働センターと梶敏之さんとの出会いは、思わぬ展開をしながら用意されていたのだと思います。
梶敏之さんのことを話し合った市民会議は市役所への就労運動をくりひろげました。そして箕面市に対して障害者別枠採用による障害者雇用の道を開くことを申し入れ、交渉をつづけました。
翌年の春、敏之さんの市役所への就職は実現しませんでした。しかしながら尚子さんはそのことの残念さよりもっと大きなものを手に入れたことに満足していました。
ひとつは、この運動の中でひとりの障害者を市役所に送りこみましたし、なによりもその中でたしかなものとなった市民会議のひとたちとの人間関係を敏之さんに手わたせたことでした。
敏之さんの進路が新たに模索される中で、敏之さんは設立準備中の労働センターをのぞきにきました。日も当たらず、こわれかけの壁とほとんど役目をはたさないひき戸。もうそろそろ春というのに、外から中に入ると厚めのジャンパーをはおらないと寒くておられない。
そんな労働センターの事務所を、敏之さんはたいそう気に入ったのでした。
「ぼく、ここで働く」。
無口な敏之さんは、いつもいちばん大切なときに、いちばん大切なことを言う少年でした。それはおそらく、地域でずっと生きてきた彼の、自分自身に対する確信だったのではないでしょうか。
敏之さんの希望を聞いた尚子さんは、まだ形もできていない、というよりは、これからも形になるかどうかもわからない労働センターに、子どもの将来をたくすことを決めたのでした。

こうして1982年の春、労働センターは養護学校を卒業した小泉祥一さんと、地域の学校で共に学ぶ運動の先頭にいた梶敏之さんを迎え入れ、活動をはじめました。開所式もパーティーもない静かな出発でした。
それから3年後の夏、梶尚子さんは心臓発作で突然この世を去りました。
くしくも市民会議主催の「第一回子ども縁日まつり」(通称唐池まつり)が唐池公園で行われる前日の朝のことでした。

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