「養護学校出たらどうすんねん」、1981年秋

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.1
「養護学校出たらどうすんねん」、1981年秋

時は目に見えるものではないのですから、豊能障害者労働センターの30年を机の上に積み上げることはできません。しかしながら、30年前のわたしたちに、今の豊能障害者労働センターの姿を想像できたでしょうか。
時のるつぼは時計の中にはなく、わたしたちの心とからだのなかにあります。だからこそわたしたちは、生きているという手ざわりのある実感をとおして、この今を30年の歴史とつなぎあわせることができるのだと思います。

ひとりの脳性まひといわれる少年がいました。当時彼は養護学校の高等部3年に籍をおいていました。
彼の目の中でこの街は、いつもバックミラーに映るかげろうのように彼の前を通りすぎ、手をのばすにはあまりにも遠く、キラキラとゆらいでいるだけでした。
買い物すがたの母親たちと子どもたちの歓声。道路工事の看板と、汗まみれに働くひとびとのたくましい腕。モーニングサービスをすませたのでしょうか、喫茶店を出て足早に信号をわたる背広すがたの青年たち。
そして、付近の学校の運動場で思い思いに体を動かし、遊んでいる同じ年頃の少年少女たち。
毎朝、彼が通学のために乗るバスはそんなどこにでもある街のざわめきの中を、つぎつぎと立ちあらわれる信号の指し示す方向に向かって走りつづけていたのでした。
学校で彼を待っていたのは訓練でした。
彼のまわりのおとなたちは、彼の将来の設計図を差し出しました。「自分でできるようになること」……。

この街全体が、他人に迷惑をかけず、自分のことができるようになることを要求しているように彼には思えました。
彼はまじめでした。一生懸命がんばりました。
そしてまわりのおとなたちは、彼のことを思えば思うほど彼のがんばりを助け、励ますすべしか持たなかったのです。
彼は訓練の末、1メートルしか歩けなかったのが5メートルも歩けるようになりました。もっとも手すりをつかんでのことでしたが……。
しかしながら、おぼろげながら彼はわかりかけていました。たとえ5メートルが10メートルになっても、あのバスの窓に映る街のざわめきにはたどりつけないことを。
時間は冷酷にも、彼の運命をのっぴきならないところへつめよっていました。翌年の春に卒業をひかえた彼には、時間が残されていなかったのです。
晴れやかなはずの「卒業」という言葉が、地ごくのさけびとなって彼の頭の中を走り回りました。
「卒業したら、僕はどうなるんや!」
彼はわらをもつかむように、この街のボランティアサークルのレクリエーションにきまじめに参加していました。

そんなときでした、そのサークルでいつも彼の車いすを押していた一人の青年が、ある日ポツリと言いました。
「養護学校出たらどうすんねん」。
自分がまだ言葉にすることを恐れていることを聞かれて、それでなくてもしゃべることがきらいだった彼は、その青年の言葉をごくっとのみこみました。
「養護学校出たらどうすんねん」。
夕暮れの街はななめに大きくゆれ、車いすの長い影の中になだれこみました。
小学部から通いつづけた養護学校の12年間が、早まわしのフィルムのように彼の目にうかんでは消えていきました。
「この12年間、ぼくは何も考えんとやってきたんやな」。
ひとりの人間が何者かを知るために「学校はどこ?」、「職場はどこ?」と問うこの時代に、あたりまえに学ぶこともあたりまえに働くこともこばまれる、自分はいったい何者なのか。
なぜこの街はこんなに遠いところにあるのか。
彼はその問いに答える言葉を持ち合わせていませんでした。
どれほどの時間が過ぎたことでしょう。彼は重い口を開いて、自分に言い聞かすようにその青年に言いました。
「施設か在宅や」。

もし、彼の生きてきた17年間が、彼にこんな答えしか用意できなかったとしたら、
もし彼の12年間のがんばりが、この街でひとりの市民としてあたりまえに生きていくことを拒否されたところでくりかえされてきたとしたら、
それは彼の問題ではなく、この街全体の問題だったのではないでしょうか。
彼の答えを聞いたその青年は、こともなげに言いました。
「せやったら、2人で八百屋でもしょうか」。
豊能障害者労働センターはこの2人、小泉祥一さん(現・豊能障害者労働センター代表)と武藤芳和さん(現・箕面市障害者の生活と労働推進協議会理事長)のこんな短い会話から生まれたのでした。

1981年、国際障害者年1年目のこの年、当の障害者がとまどっているうちに祭りのおみこしが通り過ぎていきましたが、そんな中にも多くのひとびとが数々の思いちがいや失敗をくりかえしながら、障害者問題を自分の生活に位置づけた1年でもありました。
箕面では市内の各団体と市民が集まり、「国際障害者年箕面市民会議」がその前年から活動をはじめていました。
市民会議と出会うべくして出会い、2人の小さな決意は幾人かのひとびとの思いとつながっていきました。
あくる年、1982年4月、阪急電車箕面線桜井駅の近くの古家を借り、市民会議のメンバー、河野秀忠さんを代表として、労働センターは静かな一歩を踏み開いたのでした。
「鳥は大空へ! 人間は社会へ」。
「障害者があたりまえの市民として暮らせる給料を。障害のあるひとのないひとも共に担い、共に働く場づくりを」。
野菜のかわりに無公害せっけんの販売を事業として始まった労働センターはその後ひとり、またひとりと仲間が加わり、多くの市民の応援に支えられ、その中から少ないながらも障害者が自立生活を実現していったのでした。
つづく

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