さらば豊能障害者労働センター3 カレンダーの販売拡大

 1988年5月、豊能障害者労働センターは開設当初の箕面市桜井、阪急桜井駅裏の築30年をこえる民家から、箕面市桜ケ丘の事務所に移転しました。前年の秋から箕面市行政から土地を借り、箕面市民をはじめ全国の支援者から寄せられた募金でプレハブの建物を建てたのでした。
 前年の1987年はわたしが豊能障害者労働センターに入った年でもありますが、センター設立5周年記念コンサートに小室等さん、長谷川きよしさんが来て下さり、センターの移転を応援してくださいました。
 冬に冷蔵庫にビールを入れないと凍ってしまうほど木枯らしが吹き抜ける民家から、プレハブとはいえ広くて新しい事務所に移ったものの、財政状況は公的な助成のほとんどない中、ますます悪くなっていました。

 新しい事務所に移転するとそれまでの旧事務所に近寄ることもしなかった障害者がやってきました。中には一緒にやってきた母親から「ここに入るにはどれだけの頭金と毎月の費用が入りますか?」といわれ、「ここは今のところ給料とよべる金額ではないけれど、みんなで働いて得たお金を分け合って運営しているところで、施設とはちがいますよ」と言うと、その母親は「えっ?そうだと入れてもらうのがむずしいんですか?うちの子どもはお金入りませんからどうかここに入れてください」と言うのでした。
 今はさすがに時代が少し変わり、障害者の生きる権利を保障する公的な施策が進んだかも知れませんが(ほんとうのところは50歩100歩だと思いますが)、当時は障害者は施設か在宅かしかなく、一般企業とはほど遠い労働センターの「共に働き、事業をし、給料をわけあう」という活動など、その母親には考えられないことだったのでしょう。

 新しい事務所に移転した途端、次々と障害者の仲間が増え、ますます運営費がふくらむ一方で、なんとか赤字を埋める大きな事業を展開しなければならなくなっていました。また一方で、一般企業なら人件費はコストでしかないけれど、豊能障害者労働センターにとって人件費はもっとも大切な経営成果なのです。豊能障害者労働センターの運営理念は「障害者を雇用するためにだけ事業をし、収益を障害のあるひともないひとも共に分配する」、言いかえれば「一般企業から就労を拒まれる障害者が自ら事業(会社?)を起こし、経営を担い、得たお金を健全者スタッフもふくめてみんなで分け合う」ということでした。
 その理念を実現するためには、たしかに制度の貧困をただし、公的な助成を求めることも必要でした。しかしながら、公的な助成が市民からの税金である以上、その税金を市民という株主からの出資金としてとらえ、事業開拓によって収益を高め、得たお金で一人でも多くの障害者を迎え入れ、かつ少しでも多くの給料をつくり出すことをその「配当」とすることを自らにも課し、また市民のひとびとと箕面市行政にも目に見えるものにしなければなりませんでした。
 また、この時代は3つのお店を運営していましたが、障害者スタッフ全員が小さなスペースのお店の仕事をするわけにはいかず、どんどん増えつづける障害者スタッフとともに事務所でする仕事をつくる必要がありました。そこで、すでに4年前から始めたカレンダーの販売を広げることで収益を上げるとともに、事務所の仕事をつくりだそうと考えました。

 カレンダーの販売拡大のために、わたしたちは2つの方法をとることにしました。
 ひとつは、いままで数少ない支援者に預けることがほとんどでしたが、箕面市民をはじめとする近隣のひとびとに電話で注文をとることでした。その時代は企業がカレンダーを進呈していて、「カレンダーはもらうもの」という常識がありましたし、また電話で御用聞きのように注文を取るなんて、ぜったいに無理とする意見が大半でした。
 そこで、まずはわたしがおそるおそる電話をしました。電話するためのリストは、豊能障害者労働センターの機関紙「積木」の読者名簿でした。その名簿にはお店のお客さんやスタッフが名刺交換したひとや古くからの支援者もいました。
 もちろん、断られるケースの方が多かったものの、反対に「よく電話をかけてきてくれたね。お店にはよく行くし、機関紙も読んでるよ」と話をしてくれて、カレンダーを買ってくださる方が少しずつ増えてきました。近いお家には障害者スタッフが配達したり、お店に取りに来て下さったりと、カレンダーの販売を通じてより深いつながりをつくることができました。

 もうひとつの方法として、機関紙を通じて通信販売をはじめることにしました。こちらの方は、秋口になると機関紙の裏表紙や付録を利用してカレンダーのチラシをつくり、FAXや郵便で注文してもらうようにしました。さらに、当時の代表の河野秀忠さんや現ゆめ風基金代表理事の牧口一二さんたちの障害児教育教材や障害者問題関連図書の販売を別部門でしていたのを一本化し、その顧客名簿も機関紙読者として登録し、働きかけをしていくことにしました。そして、カレンダーの特集号を発行することも始めました。
 また図書館などから市民運動の名簿を手に入れたり、全国の学校名簿を購入し、最初は手書きで宛名を書いて、機関紙発行で認められている見本紙をダイレクトメールとして送りました。こういう活動には当然コストがかかるのですが、やってみると想像以上の反響があり、飛躍的にカレンダーの販売数が増えていきました。
 今でも忘れられないのは、郵便屋さんがポストに手紙を入れる音がすると、障害者スタッフが競争で玄関を飛び出し、郵便物の中にある郵便振替用紙をみつけては「今日は○万円あるよ」とか、申し込みの手紙を開けて「○本の注文が来てる」と嬉しそうに見せてくれたことでした。彼女たち彼たちは、自分がカレンダーの機関紙の発送作業をしたり、カレンダーを発送したりしたことが、注文の手紙や入金を知らせる振替用紙となって戻ってくることを知ったのでした。
 当時は障害者がお金儲けに参加することがとてもめずらしかったのですが、カレンダーの事業のプロセスに参加することで、豊能障害者労働センターの障害者スタッフは知らず知らずに事業経営になじみ、お金を得ることの面白さも身に着けて行きました。
 そして障害者スタッフのみならず、豊能障害者労働センターはカレンダーの通信販売を通じて、一般企業の事業とはちがう経済活動のノウハウを模索し、育てていくことになました。

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