筑紫哲也さんのこと、カレンダーのこと

1997年の12月のことでした。
「筑紫です」と、受話器の向こうからテレビでなじみの声が聞こえました。世の中の不況色がより深くなっていったこの年、豊能障害者労働センターが毎年販売しているカレンダーの売れ行きがめっきり悪く、12月になってもどうしても売れ残ることが確実となってしまいました。
12月初めわたしたちの願いよ届いてくれと「ニュース23 筑紫哲也様」とあて名を書き、カレンダーとお願いの手紙を送りました。
情報が秒単位でブラウン管をかけめぐるテレビで取り上げられることは絶望的だとは思いましたが、山と積まれたカレンダーを少しでも販売しなければと、ほんとうにわらをもつかむ思いでした。
もうすっかりあきらめていた年の瀬に、筑紫哲也さんがカレンダーを手に持ち、障害者市民事情を語ってくれました。わたしたちの切ない情報はたくさんの情報をかいくぐり、筑紫哲也さんにまで届いたのでした。そして、筑紫哲也さんは情報の大海からその小さな情報をすくい上げてくれたのでした。
電話があったのは、その翌日のことでした。
「ひとにすすめた以上、自分も買わなくてはね。スタッフにプレゼントしたいので」と、カレンダーを50部注文してくれました。

阪神淡路大震災の時、豊能障害者労働センターは全国の障害者団体の呼びかけで集まってくる救援物資を被災地に運んでいました。テレビや新聞ではわからない風景が延々とつづきました。住宅のがれき、ほこり、におい。一瞬にしてこわれてしまった、ほんの少し前まであったはずの生活。いつこわれるかも知れない家々の切ない灯りがいっそう夜を暗くしていました。
がれきのそばに「無事です。○○にいます」という張り紙がたくさんありました。今回の大震災ではメール、ツイッターやMIXI、フェイスブックなどが大活躍しましたが、阪神淡路大震災の時は被災者の居所を書いただけの一枚の張り紙が切実な情報だったのです。
被災地の障害者の安否確認と刻々変わる状況がわたしたちに届けられたのも、神戸の被災地障害者センターから発進され、何ヵ所ものファックスを通って来るため字がつぶれてしまった一枚のファックスでした。
「だれかいるか、生きているか、連絡してほしい」という一報からはじまったこのファックスは、毎日毎日、全国の障害者団体に届けられることになりました。「○○さんはここにいる」。被災した障害者仲間の安否がどうなっているのか、わたしたちが知りたい情報が書かれたこのファックスから、全国の障害者市民による被災障害者救援活動がはじまったのでした。
ひとは「自分はここにいる」ということをより遠く、より広く伝えるために「情報」という道具を発明したのだと思います。それは肉声や手をにぎりあう小さな人間関係から大きな社会へと変わっていくために必要なことだったのでしょう。けれども情報がより大きく、より広くなることで、ほんとうに知りたい小さな合図が届かないこともあります。一枚の張り紙や一枚のファックスは、伝えることの切実さをわたしたちに教えてくれたのでした。
筑紫哲也さんはマスコミに身をおきながら、小さな肉声の情報が時にはマスメディアよりも真実を伝えることがあることを知っている人だったと思います。「ニュース23」の看板だった多事争論の放送時間は80秒だったと聞きます。たった80秒の中に、ブラウン管からはみだしてしまう切実な情報をつめこむ彼の情熱が伝わってきたものでした。

1999年5月30日、被災障害者支援・ゆめ風基金の呼びかけで、豊能障害者労働センターは筑紫哲也さんのトークイベントをしました。当日、箕面市民会館に現れた筑紫さんの第一声は、「ゆめ風基金と豊能障害者労働センターはどんな関係?」でした。豊能障害者労働センター前代表の河野秀忠さんが「親戚です」と答えると、「あっそう」とにっこりされたことを今でも思い出します。
カレンダーのことがあってから送っていた豊能障害者労働センターの機関紙「積木」を読んでくださっていて、「プラスWeというコンセプトはすばらしいね」とほめていただきました。わたしたちがこの年のプラスWeTシャツをステージで着ていただけないかと差し出すと、「プラスWeが小さくなって残念」と言いながらも着てくださいました。
また、ゆめ風基金の呼びかけ人であることから5万円の交通費だけで来てくださったのですが、そのお金ですべて豊能障害者労働センターのTシャツを買ってくださいました。
地震から4年、復興ムードが語られる一方で、その4年という時を必死に生きてきたひとびとの心の傷跡はかえって深くなっていく時期でした。
そしてその後につづく金融不安、大不況、企業倒産、最悪の失業率、政治不信…。時代の変化の多くはわたしたちの望むものとはちがっても、がれきの下にあった生活、夢、こころ、にんげんのかおりは残されたわたしたちにたくされていることを、筑紫哲也さんのお話を聞いて強く思いました。

2008年11月7日、筑紫哲也さんが亡くなられました。マスメディアの先頭を走りながら全国各地の小さな市民運動とのかかわりを大切に、少数者の思いを広く伝えつづけた筑紫哲也さんの死を知った数多くの人々がそうであったように、わたしたちもまた悲しみに包まれました。
あれから3年の間に、ますます混迷する時代の闇が深まる一方の今、東日本大震災と福島原発事故が起きてしまいました。「昨日より今日、今日より明日はより豊かになる」ことや「社会はよりよい方向に行く」ことや「たったひとつの涙から社会が変わる」ことや「生まれてきてよかったと子どもたちが思える」ことなど、第二次世界大戦後、いや日本では明治維新後の長い間、わたしたちがめざし、信じてやまなかった大きな神話がくずれおちそうな今、筑紫さんの存在があまりにも大きかったことを実感します。

TBS「News23 多事争論」1997年12月24日(水)放送 筑紫哲也
テレビに対する数ある批判の中で、差別用語などでの自主規制が強すぎるのではないかという声がありますが、そのテレビ局も新聞のテレビ欄に対する新聞社側の規制に対しては非常に悩まされております。
昨夜私どもは「障害者バンザイ」と題する番組をお送りしました。自分の環境に対して明るく立ち向かって、バンザイを唱えるひとりの女性を中心にえがいたんですが、このタイトルがふさわしくない。おそらく障害者団体からのクレームを恐れてのことだろうと思いますけれども、実際に番組にクレームはありませんでした。
さて、今夜は自分のことではなく、異教徒であっても自分以外のことに思いを馳せる日でありますが、障害者の人たちは自分達がそうやって世の中から蓋をされるのではなくて、社会に参加し、自分も働くことを望んでいる人がたくさんいます。
そしてそのひとつの試みですけれども、大阪の障害者の労働者センターの人たち、毎年、これ吉田たろうさんのイラストレーションですが、カレンダーを売ることによって、これひとつ千円ですけれども、そして障害者達の自立を助ける運動をやっております。
今年は不景気でカレンダーがまだ余っているようであります。このファックスの番号に、よろしかったら蓋をするだけではなくて、思いを馳せていただければ良いと思います。
【豊能障害者労働センター FAX:0727-24-2395】

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