島津亜矢が歌う「さくら(独唱)」とわたしの青春

2003年のリサイタルで、島津亜矢は森山直太朗の「さくら(独唱)」を歌っています。この歌は「SINGER」にも収録されています。
だれもが経験し、通りすぎる「卒業」をテーマにした歌はほんとうにたくさんありますが、この歌もまた青春の1ページを見事に表現した歌だと思います。
今まさに旅立っていこうとする歌としては、古くは舟木一夫の「高校三年生」(1963年)があります。日本が高度経済成長へと疾走しはじめた時代の青春歌謡曲でしたが、あれから40年を経た「さくら(独唱)」では、決して明るくはない青春のプラットホームで、必死に手をふる少年少女の切ない心情があふれているように思います。
卒業よりも前にすでに「さよならだけが人生」と知ってしまった友情は、「ぼくら 離れ離れに なろうとも クラス仲間は いつまでも」(「高校三年生」)と歌った時代より切ないがゆえに純情なのではないでしょうか。

さくら さくら 今咲きほこる 刹那に散るゆくさだめと知って
さらば友よ 旅立ちのとき 変わらないその想いを 今
(「さくら(独唱)」)

こどもの頃から友だちをつくるのが下手で、決して楽しくなかった学校生活を送ったわたしでも、今も心に残る大切な友だちがいました。
ひとりは小学校の3、4年生ごろ、近所に引っ越してきたY君です。わたしは「私生児」でしたが、彼は母親が再婚し、彼だけが前の父親の姓でした。
わたしの母は一膳飯屋を切り盛りし、兄とわたしを食べさせるのに精いっぱいでした。わたしは風呂がきらいで1ヶ月近くも入らなかったこともありましたが、いつもY君がわたしをさそいに来てくれて近所の風呂屋に行ったものでした。
たまに行くものだから何度洗っても垢が出てきて、1時間以上もかかってしまい、のぼせながら田んぼのあぜ道を帰ると、母がお店のみかん水を開けてくれました。2人で飲みながら、黒い木の電柱のそばで何時間も話をしました。とってつけたような裸電球が頭の上でかたかた風にゆれていました。
「ぼくは今の家の子どもとちゃうねん。北野高校に入って、それから京都大学にいく。京都のおじいちゃんが待ってるねん。」
彼がそういう時、単にエリートの道を行くということではない、せっぱつまったものを感じました。わたしと毎日のように会ってくれたのも、家に居場所がなかったからでした。
まわりのおとなたちにも、もちろんわたしにもどうすることもできない深い絶望が彼にはありました。子どもらしく甘えることも、近所のともだちと無邪気に遊ぶ時間が彼にはなかったのでした。
彼は北野高校に入り、わたしは大阪の工業高校に入りました。その時から彼と会わなくなりました。高校を卒業してすぐにわたしは家を出ました。たまに家に帰る途中に出会ったお母さんから、彼が予定通り京都大学に入り、京都に行ってしまったと聞きました。
Y君は、いまでも深い絶望を心にしっかりしまっているのだろうかと、ときどき思います。彼にはいま、どんな友だちがいるのだろうと。

A君は、工業高校の時の友だちでした。わたしはその高校がきらいでした。絵を描かない美術部員で、授業中部室にかくれていて放課後に何食わぬ顔であらわれる、というような具合でした。
A君は大学受験の勉強しかしませんでした。なにかの事情で普通高校に入れず、この高校に来てしまったのでした。工業高校の勉強は大学受験とは無縁でした。彼は最低限の授業を受けて、ほとんどの教師にいやがられながら受験勉強をしていました。
わたしは同じ美術部員のK君ともうひとりのともだちの3人で、学校の帰り道にコロッケをたべたり、デパートの屋上で何時間も話をしたりしていました。そのころのわたしたちは、ほんとうはなにひとつ責任を持とうとしないのに学校や社会を批判し、サルトルやシュールリアリズムにかぶれていました。
A君は美術部員でもなく、それほど親しかったわけではないのですが、時々彼の方から近づいてきました。うすっぺらでも学校や社会に文句を言うわたしたちに、同じにおいを感じていたのだと思います。
卒業の間近、わたしたち4人でみさき公園に行きました。A君は三年間の努力がむくわれ、大学入試に通ったし、わたしたちもそれぞれ就職を決めていました。わたしたち3人は、卒業したらいっしょに暮らすことを決めていました。
わたしたちはいろんな話をしました。楽しい一日はあっという間に過ぎていきました。帰り道、A君が「ぼく、朝鮮人やねん」と言いました。その時、わたしは、彼がなぜそんなことを言いだしたのかわかりませんでした。そして、わたしの心に何かが残りました。一瞬の間がすぎ、だれかが「よく打ち明けてくれた」といい、わたしたちはまたはしゃぎながら歩きました。
卒業してすぐいっしょに暮らし始めたわたしたちのアパートに、彼はお祝いにとトースターを持ってきてくれました。それがA君と会った最後になりました。
あの時、A君はさりげなさをよそおいながら、彼にしかわからない深い思いを胸に、朝鮮人だと言ったのではないかと思います。わたしたちを一瞬ほんとうのともだちと思ってくれたのだと思います。その時A君の言葉を簡単にうけとめたわたしたちは、ほんとうに彼が思ってくれたようなともだちだったのかと、今は思います。

一昨年、亡くなってしまったK君は高校を卒業してからもずっとつきあえた友だちでした。彼も父親がいませんでした。卒業してからいっしょに暮らしただけでなく、同じ会社で20年もいっしょに働いたこともありました。
十年ほど前のある日、K君の家に遊びに行きました。K君は仕事でベトナムにほとんどいて、そのころはめったに会えなくなっていました。わたしたちは夫婦共ともだちで、近所のレストランに4人で行きました。
その時、「高校の身体検査の日、おまえが『すまんけどパンツ交換してくれへんか。俺のパンツ破れてんねん』と言って、パンツをはきかえたことおぼえてるか」と、彼が言いました。レストランでの場違いな会話でしたが、思わず4人で笑ってしまいました。「あの時の生暖かい感触で、ああ俺はこいつと一生離れらへんなと思ったんや」。
言われてみて、わたしもおぼろげながら思い出しました。その日、たぶん前からわかっていたはずなのに風呂にも入らず、きたなくてやぶれたパンツをはいていてどうしようと思っていたのでした。そして、そんなことをたのみ、またそれにこたえてくれたK君はほんとうにいいともだちでした。
そんなK君が、こんなに早く亡くなるとは思いもしませんでした。いろいろな事情でしばらく会えない年月があったけれど、もう少しすればまたいっしょに山に登ろうと話していたのに…。早く元気になって、島津亜矢のコンサートに行こうと話していたのに…。
だれもがそうであるように、わたしも自分をとりまくきびしい現実から夢をみました。そして友だちもまた、それぞれのきびしい現実から立ち上がるために夢を必要としていたのだと思います。
青い時のわたしたちのそれぞれの夢がなんだったのか、その夢はどうなったのか今は知る由もありませんが、夢を見ていたからこそわたしたちは友だちになったのだと思います。わたしの数少ない友だちとの出会いと別れは、わたしのその後の人生を用意してくれたのでした。

島津亜矢が歌う「さくら(独唱)」はオリジナルの歌手の特徴をそぎおとし、ナチュラルで凛々しい声とていねいな歌唱で、無垢な友情と切ない青春を歌っています。彼女は歌のもっともやわらかいところをすくい上げるように歌うので、わたしは彼女が歌う「さくら(独唱)」を聴いているといつのまにか、45年も前になる、大人になるちょっと前のほろにがい青春時代を思い出してしまうのでした。
そこからはもう遠く離れて、やりなおしはきかないのにと思いながら…。

島津亜矢「桜」

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