波乱万丈の親睦バス旅行

先月31日から一泊二日で、豊能障害者労働センターの親睦旅行に参加させていただきました。
豊能障害者労働センターのIさんが誘ってくれたのですが、親睦旅行に参加するのは2003年に退職して以来のことです。もともと対人恐怖症で自意識過剰のわたしは、豊能障害者労働センターに在籍中もなかなかスタッフのみんなと打ち解けるのが苦手で、旅行のバスの中ではいつも私と同期にセンターに入ったYさんをたよりにしていましたので、Yさんに「ぼくも旅行にいくことになったんですけど、よろしく」と事前にお願いしておいて、当日を迎えることになりました。
当日はあいにくの雨でしたが、能勢の家を7時に出て、バス、能勢電車、阪急電車と乗り継いで、かつて箕面に住んでいた家の近くで、わたしの子どもたちが通った中(なか)小学校前に着きました。
さっそくバスに乗ると、Yさんが私の席を確保してくれていました。Yさんのお母さんや、いつまでも若いキャベツ畑のスタッフのひとたちもそばに座っていて、バスが出発する時には緊張が解けました。Yさんのお母さんは箕面の障害者運動の黎明期からのお付き合いで、障害者の母親としても、夢見る街・みのおをつくろうと目を輝かせていた市民としても、長い時を共に生きてきた友人で、昔話に花を咲かせつつ、いよいよ箕面独自の障害者事業所制度が土壇場にあり、「最後のたたかい」がせまってきていることなどを話しました。
箕面の障害者事業所制度については以前にも書いていますが、もともとは「障害のあるひともないひとも入ってきたお金をみんなでわけあう」という豊能障害者労働センターの運営から出発しています。ご存じも知れませんが、障害者が活動する場に出ている国や他の行政のお金は障害者に出ているのではなく、障害者の活動をサポートするという名目で健全者スタッフの給料や設備維持のためのお金ということになっています。
ですから、障害者がいくら働いても障害者の給料にはなりませんし、もし施設がそのお金を障害者の給料にしたら違反(犯罪)になってしまうのです。
豊能障害者労働センターは、障害者が自立生活をするには生活保護に頼らざるを得ない福祉の現状を打ち破り、障害者とその友人たちがみずから業を起こし、障害者の働く場を広げ、障害者の給料をつくりだす活動を続けてきました。それに応える形でつくられたのが箕面市の事業所制度で、市民事業を応援し、障害者の所得保障を福祉政策から実現した画期的な制度なのです。
しかしながらこの制度は、障害者のまわりの健全者の所得しか保障しない国の頑迷な福祉政策から逸脱しているとのことで、箕面市独自の政策として細々と継続されてきたのが実情で、市民事業を広げる豊能障害者労働センターを例にすると、センターの健全者スタッフの給料は社会福祉法人やNPO法人で国の政策に沿って運営している団体とはくらべものにならない給料(週5日で12万5000円)で、社会保険に加入する経営状態ではないことや、設備投資もままならないのです。
現在、箕面市長はこの制度を国の制度として位置づけることで市独自の負担を減らそうとしているのですが、もし国に受け入れられなければいつまでも独自政策は続けられないと明言していて、存続か、あるいは国の差別的とも言える福祉政策にむりやりはめこまれて廃止になるか、ここ2、3年が山場なのです。
そんな困難な状況にあるにも関わらず、豊能障害者労働センターは私が在籍していた頃よりもはるかに元気で、なによりも障害者が生き生きしているのがまぶしいほどです。それは彼女たち彼たちが自分らしさを主張しながらも他者の存在を全面的に肯定し、働く仲間、共に生きる仲間として信頼し合っているからです。その信頼はわたしのようなまわりの人間にも向けられていて、豊能障害者労働センターの扉はいつも外からやって来るひとをあたたかく迎い入れてくれるのでした。

旅行の目的地は伊勢方面で、一日目はスペイン村を予定していたのですが、雨のため鳥羽の水族館に変更になりました。最近は自由行動もチームごとに回ることになっていて、わたしは久しぶりに視覚障害者のSさんを中心とした7人のチームに入りました。
Sさんともながい付き合いで、豊能障害者労働センターの設立後まもなく、ある日、「学校に行く」と言って家を飛び出してきた「勇気ある」女性です。「視覚障害者は鍼、マッサージ」というのがいやで、もっといろいろな人とかかわりながら仕事をしたり、友だちをつくって行きたいと親や学校を説得し、彼女は箕面に住むことになったのでした。
その後、箕面市広報の点字版の全面翻訳を求め、その業務を自ら引き受けることで、現在の豊能障害者労働センターの点字翻訳事業の基礎をつくりました。それから結婚、出産、子育てを経て、豊能障害者労働センターを抜けていた時期もありましたが、今は盲導犬とともに福祉ショップ「ゆっくり」に出勤し、お店の仕事を担っています。
彼女といっしょに水族館を回っていて、そういえばはじめての慰安会で須磨の水族館に行った時、「水族館はつまんない。触れないし声も聴こえない」といった彼女の言葉を思い出しました。視覚障害者の友だちがいなかったわたしはそんなことを考えたこともなく、彼女の言葉にはっとしたことを憶えています。
彼女はいつもは自信なさそうに話をすることが多いのですが、わたしはそれから何度も、ここと言う時の彼女の言葉にドキッとし、たくさんのことを学びました。その中でも忘れられない出来事があります。もう何年も前のことですが、事務所でひとりの障害者が勢い余り、パイプいすを思い切り投げ、もう少しで彼女にあたりそうになったことがありました。その時、まわりが「なにすんねん」とその障害者につめよった時、彼女が泣きながらこう言ったのでした。「ともだちのAさんを、一瞬でもこわいと思ってしまった自分が悲しい」。
彼女の言葉を聴いた時、わたしは自分がなんにもわかっていなかったことを恥じました。そして、彼女の感性のしなやかさと、相手の障害者への熱い思いをあらためて知りました。そしてまた、障害者運動ってすごいな、と思いました。わたしはこんなひとたちと一緒に生きていることをほこりに思いました。
そんな昔のことを思い出しながら、やっぱり水族館はつまらんねと言い、少しでも触れるものを探しました。そして、土産物を、記念写真を取ってもらったりの珍道中も終わり、バスは鳥羽の観光ホテルにたどり着きました。
ここで、豊能障害者労働センターの旅行で絶対に外せないのがカラオケです。それでも以前はまだまわりに背中を押されて出るという感じでしたが、いまはなんのその、障害者スタッフが我も我もと機械を操作し、今はやりのJポップスを次々歌いだすのでした。
その中で30年前と変わらず、代表の小泉さんの「愛人」と、梶さんの「与作」は健在でしたし、Yさんは「金八先生」のテーマソングを2曲連続して歌いました。
昨年、私にカレンダーの巻き方を指導してくれたTさんは「翼をください」を歌っている間にだんだん泣き顔になり、とうとう泣きだしてしまいました。この歌に格別の想い出があるようでしたが、彼女は本当に泣いてみたり笑ってみたり、感動のかたまりのような女性です。Sさんが歌うAKB48はボブ・ディランがヒップホップを歌っているようで感心しました。
彼女たち彼たちの歌を聴いていると、カラオケ文化もまんざら悪くはないなと思ったのと同時に、やはり歌は歌わされるものではなく、歌いたい人が歌い、それを受けとめた人がまた歌い、巷に流れ心に流れてこそ、歌らしく、歌になるのだと、あらためて思いました。
不思議な宴も終わり、二次会も終わるといよいよ「いびきの饗宴」が長い夜に響きます。かくいうわたしも、他人のことは言えないのですが、一緒の部屋でNさんが犠牲になり、気の毒でした。
あくる朝は快晴で、バスの窓から景色が見えて、とても気持ちの良い出発となりました。行き先は伊勢神宮の内宮につながる「おかげ横丁」で、赤福の本店など、いろいろなお店が立ち並んでいるところを、昨日と同じチームごとに散策しました。春休みということもあり大変な人出で、お互い迷子になりかけてキョロキョロしていました。たまに別のチームの人に出会うと、迷子になった人か迷子になった人をさがしている人で、やはり必死にキョロキョロしていて、同情しつつもなんだか可笑しかったです。
そして、親睦旅行は「おかげ横丁」でHさんが発作で路上にたおれ、救急車で運ばれたところから急展開となりました。我らのバスはHさんと付き添った二人のスタッフを迎えに、伊勢赤十字病院へと予期せぬ観光コースをたどりました。
Kさんを迎えに行くというより、新築の大病院はわたしたちのトイレ休憩のスポットとなりました。わたしもKさんを待つ間に2回もトイレに行きました。
こうして波乱万丈のバス旅行はようやく帰路に向かいましたが、今度は渋滞に巻き込まれ、3時間おくれで箕面につきました。やれやれ、バスの運転手さん、ガイドさん、そしてみなさん、お疲れさまでした。
こんなに楽しい旅行に参加できたことを、豊能障害者労働センターのみなさんに感謝します。ありがとう。

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