エレーン、生きていてもいいですか

豊能障害者労働センター30年ストーリーNO.3

エレーン、生きていてもいいですかと
だれもが問いたい エレーン
その答えを知っているから だれもが問えない
「エレーン」(中島みゆき)

1983年、豊能障害者労働センターは神話の時代を通り過ぎ、みずからの歴史をつくっていくことの予感と不安に満ちた、いくつもの門を開けることになりました。
ひとがどれだけ自由であるかということは、そのひとがどれだけ選ぶことができるかということだけではなく、どれだけ選ぶことの不安を持てるかということだと言えます。
子供時代のなつかしい風景がくずれおちて行くようなせつなさが、部屋のなかを吹きぬけて行きました。なぜ、こんなにも分かりあえないのか、だれもが自分に問いかけていました。

この年の春、箕面ボランティア・ビュ-ロ-が結成されました。前年の夏から、箕面市内の福祉団体、ボランティアグル-プが一同に集まって、市民の自主的な組織を作ろうと準備を進めて来たのでした。
豊能障害者労働センターはその結成に向けて積極的にかかわり、八幡隆司さんを事務局長として送り込みました。集まったメンバ-はここ数年間、共に行動して来た人たちでした。
豊能障害者労働センターはビュ-ロ-がすべての市民に開かれた自主的な組織として、福祉行政の枠を越えた下駄ばきコミュ-ンのまっただ中で障害者問題、高齢者問題を担って行くことを夢みていました。
行政交渉の末、年間400万円の助成金が出たところで、それまでくすぶっていた考えかたのちがいが一気にふきでました。
それは、ビュ-ロ-の専従者に障害者をたてるのか、健全者をたてるのか、という象徴的な対立となって行きます。
小泉さん、梶さん、そして開所まもなくセンターの仲間になったHさん(彼は24時間介護を必要とする障害者として、箕面ではじめて自立生活をはじめた)という友を得て、生活をかさね合わせて来た八幡さんは、自分たちのボランティア活動が、障害者をマイナスの存在としてとらえる従来の福祉の囲いの中にしかなかったことに気付きはじめていました。
実際、個性のちがう3人の介護の内容はまるで違ったし、介護する人間によっても違っていました。こんなあたりまえの人間関係の中から、障害が1つの個性として解き放たれていくことを、小泉さん、梶さん、Hさん自身はもとより、豊能障害者労働センターのだれもが実感していました。それは、限りなく引算をくりかえす差別の思想ではなく、個性や違いがきわだったまま足し算をくりかえす出会いの思想でした。
ボランティア・ビュ-ロ-は、福祉行政がになうべきことを肩代りするためにあるのではなく、市民自身がになうべきこと、生きがい、人と人との出会い、百年の眠りのように醒めない差別と偏見、というような市民の一人一人の心の領域にボ-ルを投げつづけることで、誰もが当り前の市民として暮らしていける街のすがたを市民に提案していかなくてはならないんだ。
そのためにはビュ-ロ-は、ボランティアをする側とか、ボランティアをされる側とか言わないで、それにかかわる人たち、これからかかわろうとする人たちみんなで作って行くものだと思いましたし、専従者には、ビュ-ロ-がするべきことをもっともよく知っている障害者を立てるべきだと考えました。
専従者がなにもかも自分でするのではなく、みんなで助けあっていけばいいじゃないか。またそれが、ビュ-ロ-にもっともふさわしいすがただと八幡さんと豊能障害者労働センターは思いました。
残念なことに、彼らの意見は受け入れられませんでした。ビューローの中で、八幡さんと他のメンバ-が解り合う言葉がみつからなかったというより、一緒にやっていけるものと思っていた人たちとのみぞが深くなるばかりで、自分の考えに自信をなくして揺れ動いたと言ったほうがあたっていました。
そのころの豊能障害者労働センターにとっての人間関係のほとんどがその中にふくまれていたことで、これから自分たちはどうなって行くのか、という不安が彼らを追いつめていきました。
しかしながらそんな時、言葉にならずにこみあげてくるのは、短いながらも小泉さん、梶さん、Hさんの生活をこの街でひろげてきていることへの自信、しかもそれが彼ら3人の、もうどうにも止まらないエネルギ-に裏づけられていることへの自信でした。
状況が袋小路におちいって行けば行くほど、なぜか進むべき道がはっきりと見えてくるのでした。
結局、ビューローの専従者問題は選挙に持ちこまれ、福祉の専門学科を出た健全者に決まりました。

このビュ-ロ-の事件は、それから先の豊能障害者労働センターの進む方向を決める転機となりました。
まわりを見わたせばいつのまにか、友人が去っていました。粉せっけんの販売がおもな財源だった豊能障害者労働センターにとって、それはこれまでの協力者をなくすことでもありました。春というのに肌寒い風が窓ガラスをたたきました。
たった一つの地平線、大きな出会いのプラットホ-ムにたどりつくために、われわれはどれだけのさよならをしなければならないのか。
ひとつぶのなみだのおもさが世界とつりあうだけの言葉をえるために、われわれはどれだけの旅をくり返さなければならないのか。
けれどもその時、箕面市桜井の事務所でうずくまっている6人の若者を、遠くから見つめている人たちがいました。その人たちの登場は、豊能障害者労働センターのすがたを大きく変えて行くことになるのでした。静かに、そしてまた確実に、熱い波が、あばら家の事務所にむかってうねりも高く押し寄せてくるのに、それほどの時間はかかりませんでした。
その一人、Yさんが、豊能障害者労働センターのかたむいた戸を開けた時、彼らはまだそのことに気付いていませんでした。
さまざまなことがあり、2年後に豊能障害者労働センターを去って行った彼女が残していったものは、豊能障害者労働センターにとってあまりにも大きな宿題となりました。
Yさん、元気ですか、いまどうしていますか。

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