映画「100歳の華麗な冒険」

先日、映画「100歳の華麗な冒険」を観ました。2013年に制作されたフェリックス・ハーングレン監督によるこの映画は、スウェーデンの国民的ベストセラー小説「窓から逃げた100歳老人」を原作に、スウェーデンを代表するコメディ俳優ロバート・グスタフソンが好演した破天荒なロードムービーです。
前情報を持たないまま観ましたので、日本の題名から持っていた印象とはまったくちがっていて、ただただ大笑いしている間に終わってしまいました。
もともと、若いころから老人の映画が好きで、「永遠と一日」、「ベニスに死す」、「家族の肖像」など、たくさんの映画を観てきました。そんなこともあり、豊能障害者労働センターで毎年開いていたイベントでは、「森の中の淑女たち」、「午後の遺言状」、「IP5」といった名作の上映会もしてきました。
わたしが老人を描く映画やドラマに心ひかれるきっかけになったのは、1977年に放送された山田太一作・NHKドラマ「男たちの旅路」シリーズの名作「シルバーシート」でした。志村喬演じる老人が空港で死んだことをきっかけに、同じ老人ホームで暮らす笠智衆、加藤嘉、藤原釜足、殿山泰司などかつての名優たちが演じた老人たちが「バスジャック」をするドラマでした。
「男たちの旅路」は死んでいった特攻隊員の戦友に恥じない人生を生きることを信条とする鶴田浩二が、水谷豊や桃井かおりたちが演ずる若者たちに不器用にぶつかりながら、お互いの信条を変えないままわかりあっていくという、山田太一独特の人生観や社会観にあふれた名作でした。毎回その時々の社会問題から展開されるこのドラマでは鶴田浩二が若者にその問題を提起し、若者たちもそんな中年のおじさんの不器用ともいえる「純な心、潔い心」に共感する内容になっていて、少し間違えば鶴田浩二を「カリスマ」にしてしまう危険をはらながら、若者たちの鶴田浩二への共感と反感が1977年という時代の現実を代弁していて、とてもスリリングなドラマでした。
鶴田浩二が自他ともに「自分は正義」だとうぬぼれ始めた頃、鶴田浩二はバスジャックをして都電にたてこもる老人たちに、まったく自分の「正義」が通じないことを痛いほど知ることになります。「あんたはまだ若い。20年たったらわかる」という謎の言葉を残し、老人たちは穏便に済まそうとする鶴田浩二や若者たちの説得を受け入れず、警察に逮捕されることになるのでした。都電のつり革にぶら下がる無言の鶴田浩二が、とても印象的でした。
話が脱線してしまいましたが、わたしは「シルバーシート」に始まり、「老いること」が決して「福祉を必要とする弱者」になるのではなく、どこか荒唐無稽でそれでいて心情的には不思議なリアリテイにあふれた老人の映画が大好きになり、上に書いた映画以外にもたくさんの老人の映画を観てきました。
わたしが豊能障害者労働センターで活動するようになり、障害者問題だけでなく老人問題にかかわるさまざまな出来事と出会ったこともありますが、実際のところはこれからますます老人に対する福祉サービスへの必要が増える一方で、サービスの提供の数は足りず、その質はどんどん貧しくなっていく中、「老いること」を貧しい「福祉」の中に押し込めようとする社会に対して、37年も前に「シルバーシート」の老人たちは「NO!」を突きつけたのだと思います。そして、彼らが投げかけた「20年たったらわかる」という言葉の謎はまだとけていないと思っています。
そういえば山田太一の友人だった寺山修司は最後の映画「さらば箱舟」で、「100年たったらその意味わかる、100年たったらまたおいで」と言い残してこの世を去りました。

その寺山修司が生きていたなら喜んだに違いない映画「100歳の華麗な冒険」は、 自らの100歳の誕生日に主人公のアランが老人ホームの窓から抜け出すところから始まります。お金もほとんど持たず、なけなしのお金でバスのチケットを買ったアランに、スキンヘッドの男がトイレに行く間にと無理やり大きな旅行バックを預けます。ところが男がトイレから出てくる前にバスが到着し、アランは旅行カバンを持ってバスに乗り込みます。そのバッグにはぎっしりと札束がはいっていたのでした。警察は行方不明の老人として捜索し、ギャングの一味も金を奪い返そうと後を追いますが、アランはそんなことも知らずにというか意に介さないというか、マイペースで行き当たりばったりの旅を続けるのでした。
ここから映画は100歳になったアランの人生を回想するのですが、ここがひとりの老人の人生の出会いや別れを邂逅する映画とはまったくちがい、彼は幼いころから爆発に異様な関心を持ち、爆弾魔として100年の歴史に立会うだけでなく、本人が意図しないまま世界を変える大きな転換点を爆弾で演出していくのでした。
フランコやスターリン、トルーマン、レーガン、ゴルバチョフと、歴史上の有名人物がバーゲンセールのように登場し、アランの回想の引き立て役として登場します。
この荒唐無稽な映画に不思議に説得力があるのは息も切らさぬ物語の展開と、政治的な主義主張とも人間的な愛情ともかけ離れ、その場その場の成り行きと興味だけで歴史を泳ぎ、行動してきた100歳のアランが今現在、実は何度死んでもおかしくない危険と遭遇しながらもブラックユーモアいっぱいに飄々とくぐり抜けていく痛快さにあります。
また福祉の行き届いたといわれるスウェーデン社会なら物語が始まる前に保護」されていまうはずなのに、旅で出会う人間もまた大きなカバンにぎっしり詰まった大金の分け前ほしさもあって、荒唐無稽な「あったら面白い物語」に加担していくのでした。
わたしはこの映画を観ながら、パスカルが言った「クレオパトラの鼻が低かったら歴史は変わっていただろう」という言葉を思い出していました。
マルクスを登場させるまでもなく、歴史は社会の矛盾が一定に達すると変革されるという、「まじめな」理論や理性、正義などを使い分けながらひとびとを傷つけ、命までも奪ってきましたが、歴史における個人の役割をよくも悪くも言い表したパスカルの名言通りに、あるいは「なるようにしかならないよ」というアランの母親の遺言通りに、アランの爆弾が世界を変えてきたと言ってもそれほど間違っていないとこの映画は想わせてくれるのでした。
ここでもまた、人間の殺戮の歴史をつくってきたのは時の権力の「正義」であり、アランの100年の回想は20世紀の100年の血塗られた歴史そのものであることに気づきます。
さて、この映画は、赤塚不二夫の「天才バカボン」の初期のダダイズムそのままに飄々と生きるアランが、若い男女の恋のキューピッドになるサプライズをつけて終わります。
この映画もまた、波瀾万丈の物語の彼方から「人生の謎」を投げかける老人の魔法に架けられたようです。
わたしもまた老人になり、これからの人生をかけてその謎を生き、その謎を解き明かす旅に出ようと思いました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です