中部障害者解放センターの歴史は日本の障害者運動の歴史

記事が後先になって申し訳ないのですが、2月11日、NPOちゅうぶ(中部障害者解放センター)の35周年記念イベントに参加しました。普通の道筋でいえば、豊能障害者労働センターか、被災障害者支援「ゆめ風基金」の方から情報を得るところでしたが、なんと能勢の町づくりなどでつながる知人からの思わぬお誘いでした。その知人が中部障害者解放センター設立時からのメンバーの障害を持つ女性と高校の同級生で、約20年ぶりに会いに行くのに、わたしを誘ってくれたのでした。
この日は午前中にレセプションがあり、大阪をはじめとする障害者解放運動の闘士たちが集結していたようで、わたしは午後からの「さあ来い!インクルーシブな未来!!」と題したシンポジウムと、NPOちゅうぶの35年の軌跡を映像を中心に振り返り、次なる未来へと「たたかい」の一歩を共に踏み出そうとする彼女彼らのやけどしそうな体熱に圧倒された、活気にあふれたイベントでした。
「生きることはたたかいで、たたかいこそが生きることなのだ!」と、1984年に活動を始めた彼女彼らの歩みは、そのまま関西の障害者解放運動の歴史でもあります。

わたしが障害者問題と出会ったのは1980年に結成された「国際障害者年箕面市民会議」に参加した時からでした。「国際障害者年箕面市民会議」は翌年の「国際障害者年」を機に、障害者の問題は障害者にあるのではなく町や社会と、同時代を生きるすべての人の問題なのだと市民が集まり、箕面市で初めて障害者の教育を受ける権利、就労する権利、生活する権利、移動する権利の保障を箕面市行政と交渉した市民団体でした。
箕面の障害者運動の黎明期に、障害当事者の生きる権利を強烈に主張した青い芝の会の運動を教えてくれたのは、障害者問題総合誌「そよかぜのように街に出よう」の編集長で、豊能障害者労働センターの代表でもあった河野秀忠さんでした。
障害者運動のバイブルともいえる原和男監督作品「さよならCP」上映運動に深くかかわり、関西の障害者解放運動の記録映画を製作した彼は、その強烈な個性で箕面市の当時の行政職員、教員、そして一般市民を巻き込み、「国際障害者年箕面市民会議」の結成を呼び掛けました。そして、矢継ぎ早やの学習会や市役所への障害者市民の別枠採用の交渉、全国的な運動への積極的な参加などを呼び掛けました。
私は市民運動とは無縁の人間でしたが、たまたま障害者との出会いから市民会議に参加し、のちに豊能障害者労働センターのスタッフになりました。
豊能障害者労働センターの設立は1982年で、ちゅうぶとほぼ同じ頃に出発しましたので、今回あらためてちゅうぶの運動の歴史を振り返ると、同じ思いでちがった運動を豊能障害者労働センターも進めてきたことを実感します。
しかしながら、大阪青い芝の運動を前史として、障害者の人権の全的な獲得をめざし、障害者当事者がけん引してきたちゅうぶの歴史はとても豊かなものであったことは間違いありません。言い換えれば、1980年代からの障害者にかかわる国の制度への異議申し立てや障害者差別とのたたかいなど、東京の障害者運動のリンクをふくめて、ちゅうぶの35年の活動は日本の障害者運動の歴史そのものであったといっていいでしょう。
豊能障害者労働センターもまた青い芝の運動から出発したといえば、関係する団体や人々から「そうは思えない」という声が聞こえてきそうですが、わたしたちはその現場にリアルにいた河野秀忠さんから毎日のように青い芝の話を聞いていましたし、ちゅうぶをふくめて大阪の障害者運動、東京の障害者運動、さらにはアメリカやヨーロッパの障害者運動の現状を教えてくれたのも河野秀忠さんでした。
豊能障害者労働センターは設立した時から障害者の就労と所得補償の制度化を箕面市に要求してきて、少しはその成果も実感できるのですが、24時間介護保障など障害者の生活にかかわる権利を全うする制度要求は、東京や大阪の障害者運動から学んだことを箕面市でも実現するといった形で、ちゅうぶや障大連の運動に助けてもらいました。

同時代に同じ思いでちがった形で運動を進めてきたちゅうぶと豊能障害者労働センターでしたが、1995年の阪神淡路大震災の時に、障害者救援本部として被災障害者の救援活動をともにすることになりました。わたしたちだけではなく、それまで運営の違いなどで分断されていた全国の障害者が自然災害に立ち向かうために助け合うことは、かつての「団結」という言葉とは違うしなやかなネットワークをつくることになり、それ以後の自然災害による被災障害者の救援活動の砦となった被災障害者支援「ゆめかぜ基金」に結集することになりました。それをけん引したのもまた、牧口一二さんと河野秀忠さんでした。
そして、東日本大震災以後の自然災害において「ゆめかぜ基金」は全国の障害者団体に支えられ、困難な状況にある障害者に救援基金を一日でも早く届けただけでなく、発災時の救援活動から被災地の障害者の自立と再生を支える強いネットワークをけん引することになりました。それらの諸々の活動の中心にも、ちゅうぶの存在がありました。
近年の日本社会がさまざまな位相で分断が進む中、ちゅうぶをはじめとする障害者当事者が助け合いと話し合いによるつながりを強めていることは、この社会の和解と夢と希望を生み出すことに寄与するものと信じてやみません。

河野秀忠さんは2017年に亡くなりました。
お互いにまだ若かったころ、飲み屋さんで何度も彼が言った言葉を思い出します。「細谷さん、たとえ回りがぺんぺん草に覆われても、豊能障害者労働センターは法人格にふりまわされず、何者にもなるまい。そして運動を引退したら、2人で映写機とフィルムを持って全国を回ろう」。
その夢はとうとうかなわなかったけれど、もしフイルムを持っていくなら「さよならCP」でしょうか、「ローザ・ルクセンブルク」でしょうか、それとも「八月の鯨」だったでしょうか。

世情(中島みゆきカヴァー) / ひで&たま@東京(ハラカラ第3回Live)

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