河野秀忠さんの遺言とベルリンの壁をこわして得た「自由」と「ヘイ・ジュード」

冷戦の終焉は新自由主義の暴走による資本主義の終焉を予感していた

 NHKプレミアムカフェ「世紀を刻んだ歌-ヘイ・ジュード・革命のシンボルとなった名曲」を見ました。
 この番組は2000年に放送され、大きな反響を呼んだ番組のアンコール放送でした。わたしはリアルにこの番組を見たひとりですが、今回改めて見るとその当時の熱気を思い出しながらも、いろいろなことを考えさせられました。
 ソ連の民主化の動きは東欧の社会主義諸国にも波及し、1989年にポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどで相次いで共産党政権が崩壊しました。そうした「東欧革命」の頂点が東西冷戦の象徴だったベルリンの壁の崩壊でした。ソ連・東欧の共産主義独裁体制もその年崩壊へと向かい、戦後の世界を東西に二分してきた冷戦体制が終わりました。世界はこれから自由と人権が尊重される民主主義と市場経済によって平和で豊かな時代に入ると、多くの人は思ったことでしょう。

 冷戦が終わり、ソ連と東欧諸国が市場経済に組み込まれることで、世界市場が一気に拡大し、今日に至るグローバリゼーションが始まりました。かつての西側諸国の多くは、当時のレーガン米大統領やサッチャー英首相をはじめ、共産主義諸国の政治体制の崩壊を資本主義の勝利だと言いました。
 そして、共産主義を国家主義・全体主義と同一視し、共産主義そのものが民主主義と対極にあり、国家によって個人の自由が制限され、時には人々の命さえ奪われてしまう社会と決めつけてきたように思います。
 あれから30年たった今、確かにロシアや中国、北朝鮮という全体主義もしくはそれに近い強権国家が国内の人々のみならず、香港の人々への人権抑圧など武力によるプレザンスを誇示しています。一方で「民主国家」を名乗るわたしたちの社会ではますます共産主義イコール恐怖政治・全体主義というステロタイプな印象操作が極まり、「新冷戦時代」が始まっているのでしょう。
 しかしながら、共産主義かどうかよりも、全体主義国家はそれ以前も以後もさまざまな時代に世界のさまざまなところで誕生し、無数の命を今も奪っています。ほんの少し前のわたしたちの社会もその例外ではありませんでした。(わたしが子どもの頃、明治の最後の年に生まれたわたしの母は、「政治のことは家族同士でもしゃべってはいけない。特高警察に連れていかれる」と、そのトラウマは消えることはありませんでした。)
 そして今、30年前のバラ色に思えた資本主義や民主主義はすっかり色あせ、行き場のない袋小路から抜け出せず、とても危険な橋を渡っていると思うのはわたしだけではないでしょう。我が世の春とばかりに自らを正義とする新自由主義は、豊かな者は自分の能力や権力を誇示し、貧しいものを自己責任と決めつけ、「共産主義より優れている」はずの社会の中で格差と分断が取り返しのつかないところまで来ています。その結果7人に1人の子どもが貧困で、心休まるはずの家庭では虐待が絶えず、小学生までもが自ら命を絶ってしまう理不尽で悲惨な現実と、ヒステリックで刹那的な社会をつくりだしました。
こんな社会を、30年前のわたしたちは望んでいたのでしょうか。

ベルリンの壁を壊して得た自由と民主化そのものに居座る障害者差別

 30年前、そのことに警鐘を鳴らした河野秀忠さんの言葉を何度も思い出します。ベルリンの壁が市民の手によって壊され、世界が歓喜に包まれたと報じられたその時に、ベルリンの壁をハンマーで壊す市民が手にする自由が、同時に障害者を差別してきた暗い歴史をも内包していると鋭く論じた河野さんが見すえた世界のありようは、昨今の世界と日本の現実そのものだと思います。1989年の天安門事件とベルリンの壁崩壊という、歴史上の大事件の余震が続く1990年1月、河野さんは次のように書いています。

わたしたちが呼吸している、時代と歴史というナンギなシロモノは、どうしてこうも「赤い血」を要求したがるのだろうか。中国で流された多くのひとたちの血は、それが歴史を選択したひとたちの意志であったとしてもいたましい。
 「共産主義VS民主化」という構図で語られている、激動のヨーロッパや、日本以外の諸国の動きが、流された血の重さとは関係なくひとり歩きしているように思われるのは、うがち過ぎのカングリだろうか。共産主義イコール悪、民主化イコール善という、日本人好みの勧善懲悪論で語られる程、コトは簡単ではなかろう。
 では、民主化は正しい方法なのか、当然生活者たるひとびとの生活の中から生まれたチエとしての、方法選択として民主化があり、その方法が批判と反批判のシステムを持ち、自らを変革し続ける限りにおいて、おおむね正しいといわねばならない。しかし、自己を変革する意志を放棄すれば、例えそれが民主化であろうと、ひとびとの頭上に君臨するだけだろう。
 障害者運動は、いつもそこのところを主張してきたといっても過言ではない。
 障害者といわれるひとびとが、単に「資本の能力主義」によってのみ疎外されてきたのなら、コトは簡単で、資本の論理のみが敵として、ひとびとによって打倒されればいいのだから。
 だが、障害者を疎外する差別の論理は、資本のみにあらず、ひとびとのあらゆる生活場面に根づき、リキを持ち、ひとびとの支持を獲得している事実がある。
愛とやさしさの名において、障害者を「普通の社会」から放逐してきたのは、他ならないひとびとなのだから。歴史の論理として、そういうひとびとは、打倒されなければならないとわたしたちは、考えるのだがいかがなものだろうか。
 その際に流される血は、健全者社会を構成するひとびとの側から出るのではなく、放逐され続けてきた障害者側から流されてしまうことを防ぐのが、わたしたちの「運動」というものだ。
(豊能障害者労働センター機関紙「積木」1990年年頭所感(抜粋) 河野秀忠)

ラブソングもまた革命の歌だった、プロテストソングがラブソングであるように

 そんなことを思い出しながらこの番組をあらためて見ていると、なぜか涙が止まらなくなりました。30年前、ソ連をはじめとする一国社会主義の牢獄に閉じ込められ、長い苦しみとたたかいの果てに、ベルリンの壁のがれきから立ち上がった人々が夢見た社会は、エリートや特権階級を利するだけで不平等を拡大するばかりの新自由主義に支配される社会ではなかったはずです。あの時、彼女彼ら、そしてわたしたちは共産国家からあふれ出た人々の自由への切望と民主化が「こちら側」で終わるのではなく、実はわたしたちの社会のありようもまた変わらなければならない始まりだったことを学び損なったのでした。
 時代の扉が開き、光が差し込む朝にひと切れのパンとともに獲得した自由は、ひとびとがあたりまえに暮らし、安全で平和で、だれもがこの世界のかけがえのない個性を持ち、民族や性別や性的思考や出自などをアイデンティテイにとどめず、ちがいを力として助け合う、そんな数世紀を渡って途切れそうになりながらつないできた切ない夢を実現するためにこそ、わたしたちに手渡されたものなのだと思います。

そんな大きなクエスチョンを飲み込んだ上で、それでもこの番組から改めて聴こえてきたビートルズの「ヘイ・ジュード」も、マルタ・クビショヴァの「ヘイ・ジュード」も、わたしの心を激しく突き動かしました。流れる涙には悲しさと希望が入り混じっていました。
 革命のシンボルとなった「ヘイ・ジュード」は、たったひとりのひとのために歌われたラブソングだからこそ、若きマルタの心の奥深くに届いたのだとわたしは思うのです。
 わたしに「歌には力がある」と確信させ、「音楽は必要とする人の心に届く」ことを教えてくれたのは、この番組で流された「ヘイ・ジュード」でした。
そして、すべての革命歌はラブソングであることも…。

Paul McCartney - Hey Jude(Live)

Hey Jude -- by Marta Kubišová

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