パンドラの箱を開けた安倍晋三氏暗殺と村上春樹の「1Q84」

安倍元首相のいのちを奪った弾丸が射抜いたもうひとつの国家の闇

 ここ何年か、夏の終わりを実感することがないのは気候危機が原因なのでしょう。とくに今年は足早に梅雨が通り過ぎたと思ったら、暑い夏と梅雨のもどりが一緒にやってきたことや近年台風が日本列島のすぐ近くで発生しては迷走し、人間世界のあってはならないはずの理不尽な暴力に呼応するようです。
 2月のロシアのウクライナ侵攻から始まった戦争はもはや地政学的なものではなく、世界中を混乱と絶望に陥れました。わたしたちもまたその例外ではなく、恐怖と不安を人質にした防衛費倍増や核共有、原発再稼働から新設まで、コロナ禍の中でなんでもありの様相を示しています。

国葬はもうひとつの国家への踏み絵

  世界は新冷戦の時代に突入し、日本政府もまた世論も政治的にも経済的にも中露と対決する姿勢を国内外に際立たせる危ない道を突き進んでいるようです。
 ウクライナ侵攻とコロナ感染症のまん延、気候危機を身近に感じる得体のしれない不安を衝撃の現実としたのは、安倍晋三元首相の参議院選挙応援演説中の銃撃死でした。
 もとより、ひとりのひとの死はかけがえのないひとつのいのちの消失だけではなく、生と隣り合わせの死を背景に個人史と同時代の記憶を果てしない荒野に連れ去ってしまうものです。
 ましてや、わたしたちの人生を否応なく巻き添えにする「国家」のコンダクターであった元首相の銃撃死は、彼の政治家としての評価をゆだねる歴史的時間もないまま、一人の人の死を悼むことでは済まされないものとしてわたしたちに迫る大事件であることは間違いありません。その人の立場や理念にかかわらず、すべてのひとがその衝撃に突然覆われた中で、岸田首相もまたうろたえ、混乱し、比較的冷静に見えた心持ちを逸脱し、一週間後に安倍元首相の国葬を実施すると表明しました。
 7月10日投開票の参議院選挙は自民党の圧勝に終わりましたし、哀悼の意を表す献花の後は絶たず、その評価は別にして歴代最長の政権でのG7など国際会議、また日米同盟の強化をはじめ対中国包囲網として日米豪印4ヵ国の枠組み「クアッド」創設を主導するなど外交経験の長さから海外要人からの弔意が寄せられたことも事実です。その激しい世情の渦の中で、法整備などを深く考慮せず感情的扇情的に国葬(国葬儀)の実施を表明したのではないかと思います。
 しかしながらその後、犯行に及んだ人間が旧統一教会の信者の二世で、犯行の動機が母親の教会への多額の献金で家族が崩壊したこと、教団の代表など幹部との接触がむずかしく、教団関連団体とかかわりの深い安倍元首相を標的にしたことが明らかになりました。
 かねてより霊感商法や献金の強制などの反社会的な逸脱行為が指摘されてきた旧統一教会およびその関連団体と、主に自民党の政治家とのかかわりが次々と明るみになるにつれて、その中心人物とされる安倍晋三氏の葬儀を国葬で行うことが理にかなっているのか、国葬に値するとされる安倍政権の政策はほんとうに評価されるべきものなのか、実績とされる外交はアメリカにすり寄り、東アジアに不必要な緊張を生み出す地政学リスクを高めてはいないか、憲法を変えてでも日本を「戦争できる国」へと軍事力を高める方へ大きく舵を取ったことが正しかったのか…。
 時が経つにつれて、国葬への違和感が増しているのもまた現実です。

「1Q84」の青豆は暗殺テロ以外にカルトを止めることができなかったのか

 国葬と旧統一教会の問題へと波及したこの事件の衝撃性はそれだけではなく、また一時的なものでもなく、日本社会の大きな暗闇がせりあがってきたように感じます。しかも事件が開けてしまったパンドラの箱の闇は、実は明治以後、近代化のもとでつくられた日本という国家そのものの闇で、77年の時をむさぼる戦後民主主義の水面下でうごめき、増殖してきた「もうひとつの国家」の闇だったのかもしれません。
 実はわたしもそれほど大きくはない新興宗教の信者二世でした。わたしの母は戦後、わたしと兄を育てるためだけに生きた女性でした。近所の工員さんをお客さんに大衆食堂を朝から深夜遅くまで切り盛りしながら、お店の食材の残り物を一家3人の食い扶持に一日一日をしのいだシングルマザーでした。母にとって誰にも頼れない暮らしの中で、その宗教だけがささやかで切ない希望だったのだと思います。
 子どものころ、よく連れられてお寺に行き、家でも年に一、二回ノルマのように御講という集まりを開き、御導師と呼んでいたお坊さんにいくばくかの寄進をする、ささやかな宗教でした。信仰の教義も規模も旧統一教会とは比べることもできないのですが、事件の当事者の家族であるが故の苦しみや悲しみを他人ごととは思えません。
 村上春樹の「1Q84」の主人公の女性はもうひとつの闇の力を備えるチームから依頼をうけてカルト宗教の教祖を暗殺しますが、彼女もまた別の宗教の信者二世で、小学生の時、給食の前に大声で神様に感謝するお祈りをするために同級生からいじめられた経験を持っています。
 この小説に限らず、作品を重ねるごとに村上春樹は、カルト宗教に限らず、目の前の口当たりのいい戦後民主主義の奥に潜む国家の暴力的な意志というか、取り返しのつかない理不尽な宿命のようなもの、得体の知れない魔物のような生命体としての国家権力を越えた邪悪で大きな権力がしばしば姿を現します。

旧統一教会もまた世界とつながる闇の国家の踏み石なのかも知れない

 それを断ち切るためにはテロしかないと断じてしまうのはとても危険なことで、2012年に書かれたこの小説の跡を追うように2022年の現実の中で信者二世が起こした犯罪はもとより断じて許されることではありません。
 しかしながらその行為は安倍元首相のいのちを奪っただけでなく、わたしたちの日常の隙間という隙間を埋め尽くし、わたしたちが感じることも考えることも望むこともすでにオリジナルではなく、そのように感じそのように考え、そのように望むようにプログラミングされてしまう、社会全体の柔らかいカルトの壁を撃ち、扉を開け、重い眠りから醒めさせる、正真正銘のテロであったことは間違いないでしょう。
 事件の真相がどうであれ、戦後の平和憲法のもとでかろうじて持ちこたえてきた平和な未来への希望や、だれひとり傷つくことがなく人と人とが助け合いながら生きる真の民主主義社会を望む切ない夢が粉々に砕かれてしまった瞬間にわたしたちは立ち合ってしまったのかもしれません。もちろん、そうでないことを切に切に願っていますが…。
 この事件はある意味、226事件や515事件を思い出させる恐怖と共に「もう一つの国家」の大きな野望を垣間見せた事件でした。だからこそ、どんな形であっても安倍元首相の国葬をしなければならないとする強い力が働いているのだと思います。言い換えれば、国葬をすることで、わたしたちの社会はまたひとつ、大きな橋をわたってしまうことになるでしょう。その強い力にあらがう、より強く愛おしい力をたくわえながら…。

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