吉田たろうさんのこと カレンダー「季節のモムたち」

生きることがうれしい季節
生きることがせつない季節
しずかな季節にも嵐の季節にも
ゆめのかおりをとどけてくれるいのちの風が
あなたのこころのとびらをすりぬける

そんなやさしい365日を
小さな記念日にするために
モムたちがあなたの部屋に遊びに来ます
はる・なつ・あき・ふゆ
野に咲く花を両手いっぱいに
(1990年カレンダー「季節のモムたち」のチラシのコピーライト)

1988年の秋、カレンダー「季節のモムたち」のイラストレーター・吉田たろうさんから電話をもらいました。その年、豊能障害者労働センターはカレンダーを通信販売で売ることを考えていました。それまでは応援してくれる数少ないひとたちや団体にカレンダーを預け、そのひとたちに販売をお願いすることがほとんどでした。
もっとたくさんのひとたちにこのカレンダーを届けたい。このカレンダーを通して、わたしたちの活動を伝えたいと思い、書籍販売用の学校や個人の名簿、地域で運営していたお店のお客さんなど、豊能障害者労働センターとかかわりのある名簿を寄せ集め、カレンダー特集号の機関紙「積木」をつくり、発送しました。
そして、カレンダーを届けたいという思いを言葉にしようと、わたしはその時はじめて、コピーライト(宣伝文)をつくりました。もちろんそれまでそんなことをしたこともなく、勉強もしたわけでもありませんでしたから、専門にその仕事をされている方から見れば話にならないものだったと思います。
というよりまだ若かったわたしは、いっしょうけんめい伝えたいと必死に願う気持ちを込めたものならかっこ悪くてもいい、不細工でもいい、つたなく語る素人の言葉の方が、専門家がつくるスマートなものより言葉に力があると、不遜な確信をもっていたのでした。
レイアウトの工夫もなく印刷も汚れていてみすぼらしいものでしたが、伝えたいことははっきりしていました。 このカレンダーを必死に売ることで年末資金をつくりたい。障害のあるひともないひとも共に生きる社会はちいさないのちのかがやきを大切にする社会なのだと教えてくれる小さな妖精モムのメッセージを、ひとりでも多くの方々に届けたいと思いました。

吉田たろうさんはそれを読んで電話してくれたのでした。最初受話器を持った時は、カレンダーのことについて勝手に宣伝文をつくったこととその内容について怒られるのかなとびくびくしたのですが、とても喜んでくれていて、わたしたちの必死さにとても感激してくれたのでした。

「年末の運営資金をつくるために、カレンダーをつくりたいんです。」
1984年のことでした。障害者の生きる場づくりをすすめる団体が集まり、障害者市民運動を切り開いてこられた大先輩である牧口一二さんのデザイン事務所に相談に行きました。
障害があるということだけで働くこともできず、家族に生活の基盤をゆだね、いつ施設に入れられるかわからない。身をかたくし、心をちぢませている障害者の現実は今以上に切実なものでした。障害者の自立と人権を獲得するために、それぞれの地域で活動をはじめた団体が集まって、「障害者労働センター連絡会」をつくりました。
夢も希望も世界の果てまで広がっていくのですが、それと反比例するようにわたしたちはまったくの貧乏で、いくら食べても夢と希望ではお腹がふくれません。つたなくせつなく青臭く、そして今から思えばとても挑戦的に、わたしたちは牧口さんに訴えたのでした。
牧口さんの仕事仲間の吉田たろうさんが、それをずっと聞いていました。そして、「ぼくが大切にしてきたキャラクターで、小さな妖精・モムを提供するよ」と申し出てくれたのでした。こうして、小さないのちのひとつひとつが大切にされることを願う吉田たろうさんと、だれもが生き生きとくらしていける社会を願うわたしたちの出会いから、カレンダー「季節のモムたち」が生まれたのでした。
その時からずっと、一般のビジネスとはちがうところで毎年毎年、吉田たろうさんは一枚一枚を大切に描いてくださり、わたしたちも必死で販売してきました。そして全国のたくさんの方々がわたしたちの願いをささえてくださり、このカレンダーを愛しつづけてくださいました。最初5000部だった販売数は1997年には55000部までふくれあがりました。毎年全国各紙で紹介され、筑紫哲也さんのニュース23でも取り上げられました。

2003年10月15日、吉田たろうさんは逝ってしまいました。折しも、カレンダー販売の真っ最中でしたが、販売するどころではありませんでした。ほんとうにわたしたちは茫然としました。
こうして、1985年版から営々と続けてきたカレンダー「季節のモムたち」は、突然の終わりを迎えてしまったのでした。

20世紀の夕暮れから21世紀の夜明けへと、歴史はより多くの血と涙で染まってしまいました。人間の歴史の未来そのものである子供たちの命すら危機に瀕し、そのひとみにはかなしみが満ち溢れています。大震災以後のわたしたちはもっと殺伐とした暗い河をわたらなければならないのかも知れません。
しかしながらその同じ時代のある時を、吉田たろうさんの想像力の森で生まれた小さな妖精・モムたちは、「共に生きる世界」を夢みるひとびとの心の中で育てられ、生きてきたのだと思います。
それは吉田たろうさんにとってもわたしたちにとっても途方もなくせつない夢でした。その夢はいまだに実現してはいないけれど、少なくともその夢を共に見るたくさんのひとたちとこのカレンダーによって出会い、つながってきたことだけは真実だと思うのです。「こどもたちに、小さないのちがかがやく、やさしいちきゅうを手渡したい」と願った吉田たろうさんがモムたちにたくしたメッセージは、残されたわたしたちの宝物でもあります。
こんなにも深く子どもを愛し、小さないのちを愛し、平和な世界を願ったひとりのイラストレーターがたしかにいたのです。そして、彼が描くモムたちを愛してくださり、共に育ててくださった全国のたくさんの方々がたしかにいたのです。わたしたちはそのことを決してわすれません。ありがとう、吉田たろうさん。

そのひとの目は細く小さかった
最初に発明された写真機が
人間の目だとしたら
四季の花々、雪景色、山、河、海・・・
この星のちいさないのちたちが
いっしょうけんめい生きる
一瞬一瞬のかがやきをいとおしく
そのレンズは見つめつづけた
彼にとって描くという行為は
この星で共に生きる
かけがえのない小さないのちたちを
抱きしめることだった

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