松井しのぶさんとの出会い カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」

2003年10月15日、わたしたちの活動を応援するために20年間、カレンダー「季節のモムたち」のイラストを描いて下さった吉田たろうさんが亡くなられました。
モムのカレンダーと呼ばれ、たくさんのひとびとに愛されたこのカレンダーは、障害のあるひともないひとも共に生きる社会を願うわたしたちのメッセージを多くの方々に届けるとともに、その収益は一般企業で働くことができない障害者の働く場の運営費と給料をつくり出す命綱でした。
カレンダーの販売は、1982年に粉石けんの販売を通してネットワークをつくった障害者労働センター連絡会(DWC)の共同事業として、1984年からつづけてきたものでした。最初数団体が共同で5000部を制作したのが、1997年には55000部までになりました。
カレンダーの販売を通じて広がったネットワークはまさしく貧困のネットワークで、だからこそみんなが必死にカレンダーを売り、掴んだいくばくかのお金をにぎりしめ、年を越したものでした。
けれども、1997年をピークにカレンダーの販売は年々少なくなっていきました。1980年代に障害者作業所として出発した各団体はその後、生活支援と介護保障をすすめる場となっていきました。就労を拒まれてしまう障害者の働く場と所得保障の制度がなく、また就労以前に障害者の切迫した要求が介護保障にあることを思えば、カレンダーを販売するグループが年々少なくなっていったのもやむをえないことでした。
そんな矢先に吉田たろうさんが亡くなり、それを機に生活支援の場がほとんどになっていた障害者労働センター連絡会も解散することになりました。解散は決めたものの、豊能障害者労働センターにとってカレンダー事業は障害者の給料をつくりだす大きな事業でした。また他のグループも年々販売数は減少していたものの年末の一時金をつくる事業として定着していたこともあり、カレンダー事業だけは継続することにしたのでした。
新しいカレンダーを制作販売することにしたものの、わたしたちの思いを受け止め、イラストを引き受けてくれる人を探さなければなりませんでした。2005年カレンダーは吉田たろうさんの傑作イラストによる「季節のモムたち・スペシャル」を制作することにしましたので、一年間の余裕はありました。
けれども数あるイラストレーターの中からわたしたちの活動にふさわしい人を選び、そのイラストレーターにお願いしても正当な報酬には程遠い謝礼しか用意できない無茶なお願いですから、おそらく断られることが多いことでしょう。そこからまた別のひとを探し、お願いをしていくことを思うと、どれだけの時間がかかるかわかりません。この人と思う人にほんとうに引き受けてもらうまでの時間を考えると、慎重に進めなければならないがゆっくりしてもいられませんでした。
吉田たろうさんへの哀悼の思いの中で、わたしはまずは身近なコネクションから、最後は毎日インターネットで新しいカレンダーにふさわしいイラストレーターを探しつづけました。情報の洪水の中で、数あるすばらしいイラストに目移りしながらもどこかがちがい、また最初から検索しなおすという作業をくりかえしました。
そしてとうとうその人、松井しのぶさんを発見したのでした。彼女の作品を見た瞬間、「これだ」と思いました。今までの迷いが消え、このイラストレーターを発見した幸運に感謝しました。2003年の暮れのことでした。

けれども現実に戻るとまだ何も始まっていないのでした。松井しのぶさんのホームページではメールを送れるようになっていましたが、断られたらどうしようという不安が先立ち、お願いのメールを出すのをためらっていました。もちろん、その間に知り合いをたどって彼女に直接会ってお願いできないものかと努力してみましたが、まったくつながりがありませんでした。
2004年5月、わたしは決意して長いメールを送りました。今までのこと、吉田たろうさんのこと、この半年ほど松井しのぶさんのホームページに掲載されていたイラストを何度も見つめ、共同で販売するグループのひとたちに見てもらったこと、そしてこれからのことなど、ほんとうに精一杯の気持ちをこめてお願いしました。豊能障害者労働センターのホームページに掲載されているカレンダーのイラストやメッセージを参考にしていただきました。
信頼される紹介者がいるわけではなく、メールを送ったもののほとんどあきらめていたのですが、なんと数日で快諾の返事が来ました。うれしかったです。まったくつながりがなかったのに、迷惑メールとまちがわれてもしかたがない突然の長いメールをていねいに読んでくださり、カレンダーに寄せるわたしたちの思いを受け止めてくださった松井しのぶさんに、どれだけ感謝したことでしょう。
松井しのぶさんは宝塚にお住まいですが、初めてお会いしたのは東京でした。快諾のご返事をいただいてすぐに東京で松井さんたちのグループ展があり、わたしは帰ってこられるのを待ちきれず、グループ展の会場だった神田の画廊にかけつけてしまったのでした。松井さんはイラストそのままのしなやかなやさしさにつつまれた方で、わたしは松井さんのファンになってしまいました。
それから何度となく松井しのぶさんはわたしたちのために時間を取ってくださり、わたしたちはカレンダーの構想を話し合いました。その間に松井さんのイラストをみなさんに紹介するため、Tシャツやポストカードもつくりました。
また、長い間吉田たろうさんとともにカレンダー制作にたずさわっていただいた朝倉靖介さんが新しいカレンダー制作も担当してくださることになり、牧口一二さんの一口メッセージもつづけて書いてくださることになりました。
カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」は、こうして1年以上にわたる豊穣な時間に抱かれながら、誕生の時を待つことになったのでした。
2005年9月、わたしは完成したカレンダーをゆっくりとながめながら、「やっとここまでこぎつけた」というほっとした気持ちと、松井しのぶさんのご好意をむだにしないことを心に誓いました。
あれからすでに7年、カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」はすでに7作目となり、いまでは多くのファンがこのカレンダーを毎年待っていてくださるようになりました。そしていままでのイラストも42枚となり、原画展を開くことができるほどの枚数になりました。
松井しのぶさんの6枚のイラストでつづるカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」を見ていると、一日一日をだきしめたくなります。そして、かなしいときもうれしいときも、はげしいときもしずかなときも、せつないときもやさしいときも、「時の物語」のかけがえのない贈り物であることを願わずにはいられません。
そして、松井しのぶさんとの出会いから生まれたこのカレンダーそのものが、同じ時代を共に生きるわたしたちへの大きな贈り物であることに、もう一度感謝したいのです。

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