ジョン・コルトレーンの思い出

わたしが高校を卒業したのは1965年のことでした。あれからもうかれこれ半世紀がたちました。卒業と同時に、高校時代の友だちだったKさんが学生アルバイトで稼いだお金を敷居金にしてアパートを借り、Kさんともう一人の友人と3人で共同生活をしていました。
その年の夏、わたしたちは3人いっしょに会社をやめようと話し合い、「決行の日」も決めました。事前に話もせずその日の朝、わたしは退職願を出して大阪中之島の建築設計事務所をやめ、待ち合わせの中之島公園に行きました。Kさんももう一人の友人も、同じように会社をやめて公園にやってきました。
ほんとうに無責任の極みで、今はただ申し訳なかったと後悔していますが、その時のわたしたちは単なるドロップアウト(脱落、逃避)でしかない行為を、あえてそれを反社会的な行動ととらえることで、独りよがりなヒロイズムに酔っていたのでした。
以前にも書きましたが、その時に公園の便所の定番の落書きにまじり、「ビートルズ フォー エバー」と書かれた赤い文字を、今でも鮮明に憶えています。
それからわたしはビルの清掃で生活費といくばくかの貯金をつくる生活を送ることになります。行き先などどこにもない自由と賞味期限がわからない青春を持て余しながら、清掃の仕事が終わった後、夕暮れの心斎橋をぶらぶら歩いて時間をつぶしたり、梅田の歓楽街の路地裏にあった「ゴーゴー喫茶」と呼ばれる、ちょっといかがわしいお店にいりびたっていました。そこには学生運動に明け暮れていたひとたちとはちがったやり方で、時代と格闘していた同年代の若者たちがたくさんいました。
その頃、心斎橋のレコード店に貼ってあった一枚のポスターに、わたしは心を惹かれました。ジョン・コルトレーンの「夜は千の眼を持つ」のアルバムのポスターでした。1964年に発売されたこのアルバムの原題は「コルトレーン・サウンド」というのですが、収録されている最初の曲名を邦題にしたもので、その曲は映画音楽のテーマだったようです。
すこし気味の悪いジャケットだった上に、「夜は千の眼を持つ」という言葉にドキッとしたのを憶えています。「壁に耳あり」という意味もあるようなのですが、満天の星を想像できるこの言葉に心を惹かれたのを憶えています。
それからしばらくして、京大生のIさんにジャズ喫茶とジョン・コルトレーンを教えてもらったことは、この間書いたとおりです。
わたしは明るいとは言えない青春時代を通りすぎてきたのですが、時には路上での学生と機動隊の衝突があったり、ラブホテルがちかくにある路上で洗面器を持った女のひとが立っていたり、「ゴーゴー喫茶」でアイビールックに身を固めた数人の少年が「東京から来た新しいステップです」と一斉にダンスをはじめたりと、いまから思えばそれなりに青い時を生きていたのだと思います。
ある日そのお店にいると突然店員が「警察です。すぐに逃げてください」と叫ぶと同時にお店が真っ暗になり、わたしも急いで逃げたのですが、そのあくる日、もうそのお店はなくなっていて、そのお店でいつも見かけた若者たちはどこかに行ってしまったのでした。

時がすぎ、あれだけ激しく吹き荒れた70年安保闘争が拡散し、「高度経済成長」に乗り遅れまいと世の中がアクセルを踏みこんだ1970年、わたしもまたヒッピー同然の暮らしから世の中のあるべきとされるレールにもどらざるを得なくなりました。わたしは社会と折り合いをつける努力を不器用なりにはじめていました。
ある意味、本来なら高校を卒業した時からはじめなければならなかった人生を、5年間の「登校拒否」をへて、やりなおすことになったのだとも言えます。親や兄から、「やっとまともになってくれた」と言われましたが、それでもわたしはその5年間が人生で一番楽しかったと今では思っています。
そしてその5年間は、ステレオやレコードプレーヤーもなくレコードも一枚も持っていませんでしたが、ジャズ、ロック、ブルーズと、わたしがそれまでまったくと言っていいほど知らなかった音楽との出会いを用意してくれたでした。ずっと後にわたしの好きなピアニスト・小島良喜が、わたしの友人で耳が聞こえにくい女性に「だいじょうぶ、聴こえなくても聴こえてる」と言ったことがありましたが、まさしく、音楽は聴く道具がなくても、音楽を必要とする心、愛を必要とするわたしの心に届いたのでした。

1970年、わたしは大阪府豊中市の町工場で働くことになったのですが、近くに音楽大学があるせいか、「ブルーノート」という喫茶店がありました。店の名前とイメージがあっているのかあってないのかよくわかりませんが、お世辞にもきれいとは言えない店構えで、客も常連さんだけでほとんどはじめてのお客さんが入らない感じの店でした。
親友のKさんと二人でおそるおそるその店に入ると、店長らしきひげもじゃのおじさんがお客さんと将棋を指していて、コーヒーを注文されるのが迷惑そうでした。お店の中にはウッドベースとサックスが置いてありました。
わたしたち二人は静かにコーヒーを飲み、おじさんたちの会話を聴いていました。ジャズ喫茶というわけでもないらしいのですが、古いレコードがたくさん置いてあったことは憶えていますから、おそらくジャズがかかっていたと思います。
わたしたちは何度かそのお店に行きました。始めは迷惑そうだった店長さんも多少愛想がよくなってきたある日、わたしはおそるおそるおじさんに話をしました。わたしはそんなにジャズのことは知らないけれども、昔友だちに教えてもらったジョン・コルトレーンの「至上の愛」というレコードをかけてもらうわけにはいかないものかと。
すると、そのおじさんはこう言ったのでした。「はじめて聴いたジャズがコルトレーンで、しかもこの曲だなんて、あんたはかわいそうなひとやな」。わたしが「なぜですか?」とこわごわ聞くと、「こんなすばらしい曲を最初に聴いてしまったら、他の曲を聴く楽しみがなくなってしまう」。
そう言いながら彼はにっこりと笑い、愛おしそうに古びたジャケットからレコードを取り出し、「至上の愛」をかけてくれたのでした。

ジョン・コルトレーン「至上の愛」

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  1. まとめtyaiました【ジョン・コルトレーンの思い出】

    わたしが高校を卒業したのは1965年のことでした。あれからもうかれこれ半世紀がたちました。卒業と同時に、高校時代の友だちだったKさんが学生アルバイトで稼いだお金を敷居金...

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