「悲しみは、聞き手がいないと流れない」。柳美里と高校生たちの演劇冒険

東日本大震災から8年、東日本各地の復興は地域によって格差がはげしく、とくに福島の原発事故による被害は修復が不可能とさえ思えるのが現実ではないでしょうか。
今年もマスコミ各社が被災地の現実を報じる中、作家の柳美里と広野町のふたば未来学園高校演劇部の生徒たちが演劇を通じて、震災が閉じ込めてしまった高校生たちの記憶を掘り起こし、大きな悲しみから解き放たれるプロセスを追うNHKの番組に心打たれました。
柳美里は1968年横浜市生まれ。高校中退後、東由多加率いるミュージカル劇団東京キッドブラザースに入団。演出助手を経て1987年に演劇ユニット「青春五月党」を結成。1993年、『魚の祭』で第37回岸田國士戯曲賞を受賞。1994年小説家に転身し、1996年、「フルハウス」で第18回野間文芸新人賞、1997年、「家族シネマ」で芥川賞を受賞しました。
2011年の震災直後から福島県に通い、2015年4月、福島県南相馬市に転居。2018年4月、自宅一部を改装し、本屋「フルハウス」を開業しました。
ある日、彼女は書店を訪れたふたば未来学園高校演劇部の生徒に「一度、うちの演劇部を見に来てください」と依頼されます。ふたば未来学園高校演劇部は原発事故後をどう生きるのかをテーマに、部員たちみずからがつくった劇を上演してきました。
学校を訪れた柳美里は、この子たちとなら彼女が21歳の時につくった戯曲『静物画』を上演できると思い、23年ぶりに「青春五月党」を再結成し、自宅裏倉庫を改装した小劇場で4日間上演したところ、地元住民に加え、札幌からも観客が訪れました。
NHKの早朝番組の中で取り上げられた短いドキュメントは、柳美里と高校生の出会いと対話から始まります。高校生たちひとりひとりが幼かった頃に体験したはずの震災と原発事故を説明できないもの、語ることができないものとして心の底に横たわったままの悲しみが演劇を通して言葉化され、可視化されていく様子を彼女たち彼たちとともに追体験します。それはまた、在日韓国人として生まれ、高校を中退し演劇の世界におずおずと入って行った柳美里自身の記憶までもよみがえらせるのでした。
『静物画』は高校文芸部の生徒たちの生と死のあわいで揺れる繊細な心情をつづった作品でしたが、復活版はふたば未来学園の生徒たちから丁寧に聞き取った震災の記憶が、新たに登場人物のせりふに付け加えられました。

「悲しみというのは、聞き手がいないと流れない、自分の中にとどまって淀んでしまっている。けれども聞き手がいれば、そこに向かって悲しみを流すことができる。そこにしか救いはないんじゃないか」と語る柳美里は、高校生たちに「2011年3月11日の話をしてください。」と問いかけます。
するとどうでしょう。高校生たちがふたをしてきた幼かったその時の記憶が噴き出し、心の中で止まっていた時間が動き出し、語ることができなかった悲しみが堰をきったようにあふれ出ます。その瑞々しい感性が紡ぎだす言葉は、彼女たち彼たちの表情と相まって、大人たちとはまたちがう鋭い説得力でわたしの心に突き刺さりました。
柳美里はたたみかけるように高校生たちの記憶のやわらかくて痛いところにふみこんでいきます。「ひとりひとりが自分の故郷の名前をさけんでください。かけがえのない存在を自分の声で抱きしめるように。もう行くことできない場所に声だけで踏み込むように」。
今もまだ立ち入ることを許されない故郷を持つ子どもたちは、街に届くような大声で叫ぶと、柳美里は嗚咽をこらえているように見えました。
その中に、学校のある広野町に幼い時から住む子どももいました。彼は3年間よその町に避難した後にこの街に帰ってきたのですが、広野町は廃炉作業の拠点となり、ホテルや病院などが立ち、幼い頃大好きだった海に向かって広がっていた故郷の姿はありませんでした。
他の子どもたちが帰れない故郷を想って叫ぶように、自分が生まれ育ったこの町の名前を叫ぶことができないでいた彼でしたが、小高い丘から町を見下ろした時、自分が大好きだった海だけが変わっていないことに気づき、毎日のように海に向かって走っていった日々がもう帰らないと思った時、はじめて大きな声で故郷の名前を叫ぶことができたのでした。
ある日、柳美里はセミの抜け殻を持ってきて、子どもたちに夏の想い出を語ってくださいと問いかけます。突然の要求に戸惑いながら、子どもたちは原発事故の前の夏の想い出を語り始めます。「橋の欄干を歩いていて、突風が吹いて川に落ちた」、「庭の木に50匹ほどのセミが庭の木にとまっていて、やかましいので木を蹴るとバタバタと飛んで行った」…。
その中で、この芝居に自分が出てもいいのかと悩んでいる子どもがいました。
彼は福島市生まれの福島市育ちで、津波にも原発事故にもあわず、被害の当事者としての記憶がないといいます。夏の思い出と言われて、貯水槽のザリガニを30匹ほど捕まえてきて、それに一匹ずつ名前をつけて飼っていて、夏休みの終わりに親に言われて家の近くの用水路に一匹ずつ放した思い出を語るのですが、当事者であるみんなは家がなくなったりしていて、ザリガニがいなくなったのとは比べ物にならないものがなくなっている…。当事者が語る過酷でつらい思い出がない自分に震災を語れるのか、柳美里に悩みをぶつけます。
柳美里は言います。「でも、その時に地震にあい、その後原発事故の影響は福島市にもあった。わたしはあなたが当事者だと思っています。距離があるから近づきたいという思いはないですか?たとえばわたしは韓国籍なんですが韓国語を喋れないんです。しゃべれないんですが、ある思いはあります。福島市というので距離がある。その距離があるからこそ知りたいという思いが、もしかすると双葉郡で生まれ育った子より強いかも知れない。疎外感を感じる必要はない。」
久しぶりに福島市に帰り、ザリガニを捕まえた貯水槽、思い出の地に立った彼は震災当時の記憶がよみがえってきました。放射線で水が危ないと言って、水を一回無くして新しく水を入れたらザリガニも排除されてしまったこと…。家の近くの用水路にザリガニを一匹ずつ名前を言いながら放したこと…。大切なものをなくした悲しみが自分の記憶の中にもあったことに気づきます。
「(高校生は)震災時の幼い体験を語れる最後の世代だと思うんです。幼かったんです。子どもだったじゃないですか。それをわたしは大事にしたい」。
柳美里との対話を通して、高校生たちはふたをしていた記憶を解き放ち、そこから生まれるナイーブで無垢な肉声の言葉がセリフになり、そのセリフが行き交い重ねられる劇的空間がそれぞれの体験や記憶や悲しみを共有する場となっていきます。
もし、理不尽で過酷な個人的体験が時と場所と時代を超えて伝わり、受け止められ、教訓になるとしたら、それは事実からのみ導き出される防災マニュアルだけではなく、想像力による記憶の共有を引き起こす、演劇や音楽などによるフィクションの力を必要とすることを柳美里と高校生たちの冒険が教えてくれたのでした。
そして、わたしがもっとも共感するところは、当事者性で思い悩む福島市出身の子どもに柳美里と子どもたち自身が出した答えにあります。距離があるからこそ強い磁場で被災地とつながり、被災体験をした人の悲しみとつながることができるという当事者性こそが、記憶の風化を無縁のものにすると確信します。
そのことを痛いほど感じる柳美里は、彼のエピソードを劇のクライマックスに持ってきます。夏の終わりに一匹ずつ名前を呼びながら「元気で生きろよ」とザリガニを逃がすシーンに観客もテレビで観るわたしも思わず涙がこみ上げてきます。原発事故や津波や地震が引き起こした個人の思い出が、大切なものをなくした悲しみの記憶として共有されるプロセスの現場に、高校生たちと柳美里が立ち会わせてくれたのでした。
「そもそも『3.11を忘れない』を忘れないという言葉に違和感がある。ここではみな、今も3.11の中で生きているという意識。忘れ、遠ざかることは決してなく、暮らしの一部なのです」。(柳美里)

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