永六輔さん、ありがとうございました。永六輔さんの思い出1

永六輔さんが亡くなられました。
永六輔さんとは1995年に設立された被災障害者支援「ゆめ風基金」が毎年開いていた支援イベントのスタッフとして身近にかかわらせていただきました。
永六輔さんといえば、なんといっても「上を向いてあるこう」、「黒い花びら」、「遠くへ行きたい」、「黄昏のビギン」など、中村八大とのコンビで世に出した数々のヒットソングはこれからも時代を越えて歌い継がれることでしょう。また、テレビ放送の創成期の伝説的バラエティー番組「夢であいましょう」や、それ以後ラジオ番組の放送作家兼パーソナリティとしても活躍され、ラジオを通じて長年にわたり全国のリスナーとの深い心のつながりもまた語り継がれ、若い世代にも受け継がれていくことでしょう。放送作家、作詞家、ラジオのパーソナリティ、タレント、随筆家などなど、多彩な才能でわたしたちを笑わせ、時には叱咤し、生きる勇気を届けてくれた戦後の巨人といえる永六輔さんの死は昭和の終わりを告げるもので、くしくも参議院選挙で憲法を変えようとする議員の数が3分の2を超えた翌日に知ったのも因縁を感じます。
子どもの頃、街中が、日本全体が「戦後」から離陸しようともがいていたあの時代を席巻し、今も世界中で歌い継がれる「上を向いて歩こう」を作詞した永六輔さんを、30年以上も経て間近に見ることになるとは、思いもしませんでした。1995年、わたしははじめて永六輔さんにお目にかかりました。
1961年、わたしは中学2年生でした。60年安保闘争の嵐が走り抜け、貧困と欲望と希望と後悔が渦巻き、時代は墜落しそうになりながら重たい翼を明日に向かって必死に持ち上げていた頃、母と兄とわたしの3人は雨露をしのぐだけのバラックで身を寄せて暮らしていました。
わたしと兄を育てるために朝6時から深夜1時まで一膳飯屋を女ひとりで切り盛りし、必死に働いていた母のせつなさと反比例するように、わたしたちは圧倒的に貧乏でした。
甘い夢と根拠のない野心を隠し持つ父親のいないわたしに、坂本九やジェリー藤尾、森山加代子が歌った数多くのヒットソングは心に染みました。雑音だらけのラジオ、画面がゆれては時々ぷっつりと消えてしまうテレビから流れた「六八(永六輔・中村八大)コンビ」による新しい歌謡曲・日本のポップスは、それまで歌謡曲しか知らなかったわたしに「明日きっといいことがある」と思わせるに余りある希望と夢をくれたのでした。
後に、「上を向いてあるこう」は60年安保の挫折から立ち上がろうと永さん自身にも世の中の若者にも送った応援ソングだったのだと知りました。

1995年の地震からひと月はすぎていたでしょうか。わたしはゆめ風基金の現代表理事の牧口一二さんと副代表理事の河野秀忠さん、理事の八幡隆司さんに同行し、被災者救援イベント会場に出演されていた永六輔さんを訪ねました。
牧口さんたちは阪神大震災の被災障害者を長期支援するための「ゆめ風基金」の立ち上げイベントへの協力依頼と、永さんに基金の呼びかけ人代表を引き受けてもらうため、わたしはこの年の7月に永さんのトークイベントを開く豊能障害者労働センターの一員として同行させていただいたのでした。
はじめて見た永さんはとても大きな人で、特に顔が大きく真っ赤でした。その人が放つエネルギーは火傷するほど熱く、とてつもなく大きなやさしさに、わたしはたじろぎました。この人にお願いする以上、こちらも覚悟を決めなくてはと思いました。
その印象を持ったまま6月22日、わたしは大阪のフェスティバルホールで開かれた「ゆめ風基金」の立ち上げイベントのスタッフとして、大阪の女性障害者・Tさんと2人で永さんの控え室担当になりました。このイベントは障害者運動のネットワークが結集し、当日2800人のお客さんが入った最大級のイベントでした。
永さんの他に大阪フィルハーモニー、紙ふうせんなど、多数のアーティストが参加しましたが、永さんの控え室はそのまま全体のミーティングにも利用されました。
湯呑みぐらいはあったように思いますが、ケータリンググッズはなく「そういうものは担当者が適当に用意してください」という、予想していたとおりのアバウトな指示で、先日の永さんの迫力を思い出し、正直緊張していました。
それはTさんも同じみたいで、「どうしようかな、何したらいいんやろ、永さんのような有名人にどう接したらいいんかな、ああどうしょう」と、わたしをますます緊張させるようなことを耳元でささやくのでした。顔を見ると言葉ほどには緊張してるようではなく、このひとはなかなかのくせ者だと思いました。
「会場に来られたら控え室にお通しするので、お茶でも飲んでもらって」と言われたが、肝心のお茶がない。しかたがない、現地調達に行きましょうと外に出ました。「だいじょうぶかな、なんとかなるかな、ミスしたらどうしょう、だいじょうぶや、どっちみち相手も人間なんやから、気楽に行こう、なんとかなるやろ」と相変わらずぶつぶつ言いながらTさんは、軽度の脳性マヒといわれる独特の風情でぶらぶら歩きます。そんな彼女と身の上話などもしながらコンビニで買い物している間に、わたしははすっかり緊張がほぐれました。ああ、ここにも人生の達人がいる。
控え室にもどり、お茶の準備もすましたものの、いっこうに永さんは現れない。おかしいなと思っていたら、もうとっくに会場にいるらしいという情報が入り、わたしは急いで客席に行きました。永さんはリハーサルを聞きながら、あっちの座席こっちの座席と大きな体をゆすりながら動きまわっていました。
「あのー、お茶を入れますので、控え室に…」と言う間もなく、「ありがとう、気を使わんでいいから、ぼくは勝手にしてるので」と、つれない返事。落ち着かん人やな、と思いながらも何にもしなくていい気楽さに、Tさんとわたしはほっとしました。
やがて、永さんの控え室で舞台スタッフ、出演者が集まり、打ち合わせがはじまりました。実は、超多忙な永さんが来る前にすでに打ち合わせはすましていて、その確認ぐらいの感じで舞台監督がスケジュールの説明をしていました。
ところが、永さんはそれをことごとくひっくり返してしまうのでした。他の人たちはみんな口をぽかんとあけ、当惑しています。静まり返った中、永さんだけが早口にしゃべっていました。
わたしは横で聞きながら、永さんのほんとうのすごさを知りました。永さんは完璧にお客さんの立場に立っていたのです。それはみごとなもので、反論の余地がありませんでした。初顔合わせの出演者が集まったイベントの場合、出演者への気づかいから舞台づくりをしてしまうことがよくあります。その中でも永さんへの気づかいもあったと思います。
永さんはそれをもっとも嫌う人なのです。お客さんはわざわざ時間をこの催しのために使うのですから、入場料以上の満足を持って帰ってもらわないといけない。
その信念はすごいもので、稀代の才人で放送作家、作詞家その他数々の分野で活躍されてきた人だけど、お客さんへのサービスを第一と考える「芸の人」なのです。
リハーサルの間、あっちの座席こっちの座席と飛び回っていたのは、どうすればお客さんに楽しんでもらえるか、そしてどうすればゆめ風基金の願いをお客さんに伝えられるのか、そのことで永さんは頭がいっぱいだったのです。控え室でお茶なんか飲んでる暇はないのです。このイベントにかける永さんの思いが伝わってきて、胸にじんと来ました。
開場と同時にマイクを持ち、入場整理をしながら開演まで話し続けるのも、お客さんを一番に考える永さんの思想といっていいでしょう。お客さんはもちろん大喜びで、何度も笑い転げ、何度も涙を流す。おかしくて、楽しくて、元気が出て、そしてやさしくなれる。
永さんはお客さんとそんな豊かな時間を共有し、満足して帰ってもらうことに全力をつくすのでした。
その日の終演近くに、東京の永さんの事務所から電話がかかってきました。「永はまだ出ていませんか。明日の予定があるので」。わたしはいそいで舞台袖に走って行き、機会を見つけて永さんに伝えました。「わかっているよ。悪いけれど、最後まではおれそうにないね」。
永さんは時計を気にしながらぎりぎりまで舞台に立っていました。そして「もう限界、またね」と、スタスタと会場ロビーへと向かいました。
わたしは永さんの帰りのタクシーを段取りするよう言われていました。「タクシーをすぐに用意します」と言ったのですが、「そんなものいらないよ、ここから淀屋橋まで歩くから」と言い残し、大きな肩にかばんをかけ、上体をななめにゆすりながら走って行きました。
なんてやさしくていさぎよくて、いそがしい人なんだと思いました。
それから毎年、何回となくゆめ風のイベントで永さんのそばにいる機会を得ましたが、舞台を下りている時はぐったりされていることもありましたが舞台ではそんな素振りはまったくありません。わたしたちが気を使うと「もっとぼくをこきつかわないとだめじゃない。人をつかうのが下手なんだから」と機嫌が悪くなるのです。
かかわりを持つ以上、ゆめ風基金のためになることなら何でも引き受ける。そのことがお客さんにもわたしたちスタッフにも伝わって、いつもわたしたちは涙が出てしまうのでした。
ゆめ風基金立ち上げイベントの10日後、1995年7月2日、いよいよ箕面に永六輔さんがやってきました。(つづく)

永六輔 「生きているということは」「いきるものの歌」

Sukiyaki - 上を向いて歩こう (Kyū Sakamoto, 坂本 九)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です