きよしこの夜 憲法とわたしの人生6

そんなわたしの子ども時代は貧乏でしが自由でもありました。界隈にお金持ちはほとんどいませんでした。父親がいないわたしの家族がまわりからどう見られていたのかよくはわかりませんが、まわりの家族たちもそれぞれの事情をかかえていたのだと思います。
もちろん、さまざまな差別がたくさんあっただろうけれど、幸運にも長屋をはじめ、まわりのどの家族もわたしたち家族に親切でした。生活の苦しさや個々の家族の事情が大人たちにあったでしょうが、そんな事情をわたしたち子どもが読み取れるはずもなく、貧乏であることが普通でした。めまぐるしく走りぬける時代の風景はいつも青い空につつまれ、わたしたちもまた貧乏とともにやってきた戦後民主主義の原っぱをかけめぐったのでした。
しかしながら、時代のスピードは大人たちだけでなく、わたしたち子どもの頭上をもけたたましく通り抜けていきました。1953年にはじまったテレビ放送は1960年には一部カラー放送になりました。その間に1万円台の月給は2万円台になり、真空管はトランジスタになり、力道山のテレビ放送を金持ちの家で見ていたわたしの家にも、中古の白黒テレビがやってきました。
町はまだかろうじて黒い土を残していましたが、わたしたち子どももまた、そんなに単純には貧乏であることも自由であることも許されなくなりつつあったのです。それぞれの家の事情にひきはなされながら、わたしたちはつながれない悲しみとつながることを切なく求めるひとみを持つ子どもになっていきました。

小学四年生から六年生まで、日曜の夜に英語を習いました。わたしたちの町にやってきた「洋行帰り」のきざな紳士が町の青年団の寄り合い所を借り、無料で子どもたちに英語を教えてくれることになったです。
来る者こばまずという無料の英語塾でしたが、懐中時計を持ち、名探偵ポアロか赤塚富士夫の漫画に出てくる「いやみ」にそっくりのへんな怪人だったため、集まってきたのは10人ぐらいでした。
わたしはその塾に通うのをとても楽しみにしていました。風貌とはうらはらにとても暖かくやさしいその人は、わたしたち子どものどんな事情も呑み込み、ひとりひとり、それぞれの未来が輝けるものであることを願って無償のボランティアを自らかってでたのだと思います。子どもたちの様子をうかがい、それとなく気を配り、懐中時計に時々目をやりながらいろいろな話をしてくれました。クリスマスにはわたしたちひとりひとりにプレゼントを用意し、みんなで「きよしこの夜」を英語で歌いました。この歌はわたしが最初に覚えた英語の歌になりました。
それから約十年後、わたしが20才になった頃、わたしはその町を離れていましたが、彼は市会議員に立候補しました。その選挙は彼がリヤカーに乗り、英語塾の歴代の教え子がリヤカーを引いては辻々で演説するというものでした。
見事に当選し、何期か市会議員をしていた彼は、一回もかかさず市議会の様子を達筆の墨字で書き、町のいくつかの場所に張り紙をしました。無党派のほんとうの「市民派」議員として活躍した彼が英語塾を開いたり市会議員になったのは、ほかならぬ町の未来をつくるのは市民自身であるという、いまわたしが切実に感じる心情からだったのだと思います。

いよいよ参議院選挙の投票日を明日に控えて、こどものころのワンダーランドを思いだすのは、たしかに懐古趣味なのだと思います。わたし自身、昔がよいという話には眉につばをつけてきましたから、この話をそのままうけとめてもらえるとは思いません。
しかしながら、わたしがあんなに貧乏だった子どもの頃、「私生児」でどもりで不登校児だったわたしを取り巻く福祉制度はほとんどなかったけれど、それでも今幸せだったと思うわたしがいます。私の人生を、お金や名誉や権力とはまったく縁がなかったわたしの人生を自分なりの誇りに思えるのは、沖縄の人々を踏みつけた上に築かれたものだったと知り、言葉をなくしてしまったとしても、戦後民主主義と、その民主主義をがれきの上に築く土台となって、わたしたちを支えてくれていた日本国憲法であったことだけは、たしかなことなのです。
この憲法を自民党草案のように変えるということは、わたしの人生がかき消されることにとどまらず、日本の戦後そのものがかき消され、だれも望まない戦前と監視社会が始まるということなのだと思います。

第二次大戦中、滝口修三は治安維持法違反容疑で特高に逮捕され、8ヶ月間にわたり警視庁杉並警察署に留置されました。70年安保の時、寺山修司も危険思想の人として公安に監視された時期があったといいます。
海外では「プラハの春」後、1968年、ビートルズの「ヘイ・ジュード」をアルバムに収録したマルタ・クビショヴァは1989年の民主革命まで31年もの間、国家権力に監視され、内職の仕事までも奪われました。
国家はとても想像力が豊かで、政治的行動や発言だけでなく、国家の秩序をおびやかすような人や物事に容赦なく監視の目を向けるのです。
三宅洋平の応援にかけつけた湯川れい子さんが証言するまでもなく、ビートルズ来日の時の国家やマスコミの「ビートルズ帰れ」の合唱は、国家秩序を脅かす脅威であることを見抜いていたからだと思います。
今の安倍政権にそんな「豊かな想像力」はないと思われるかもしれませんが、ロカビリーから藤圭子の演歌まで歴代の政権は想像力を駆使して監視してきたはずです。
こんなことを書けばやぶ蛇かもしれませんが、「世界の終わり」は国家に拘束される若者の最後のシェルターとして、公安が早くから注目していたとしても不思議ではないと私は思います。
もしかすると、選挙になんか興味がないと思っているかもしれない若いひとに届かないまでも伝えたいことがあります。
今回の選挙で土壇場にまできた憲法を変える力はまず真っ先に「個人の自由」をターゲットにしています。
そこにある「表現の自由」は政治的な表現の自由ではなく、たとえばわたしも大好きな「世界の終わり」と、彼女たち彼たちの音楽を愛し、集まって来る若者たちの自由の一部、またはすべてを奪うことにつながるかもしれないのです。

SEKAI NO OWARI「♪RPG」 国立競技場

ジョン・レノン「ハッピークリスマス (War Is Over)

きよしこの夜 憲法とわたしの人生6” に対して2件のコメントがあります。

  1. S.N より:

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    tenehiko様
    私も、今回は危機感を持っています。
    明日は、必ず投票に行って憲法を守りたいと思います。
    いつまでも、島津亜矢さんを応援し続けられるような
    幸せな世の中が続くことを願って。

  2. tunehiko より:

    SECRET: 0
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    S.N様
    いつもありがとうございます。
    先日の新歌舞伎座の千穐楽では失礼しました。
    亜矢さんは秋にはまた大阪と神戸に来てくれるので、どちらかに行くつもりです。機会がああればねまたお目にかかりたいと思います。
    最近はずっと選挙りことなど、平和や人権にかかわる記事が多くて申し訳ないのですが、もともとは「恋する経済」のメインテーマのひとつでして、お付き合いいただいて感謝しています。
    どうも、世の中は私の思う方向にはないようですが、今は三宅洋平がどうなるのか、注目しています。

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