100年前の虐殺事件を追体験、今の危険な現実と向き合う

映画「福田村事件」は観るだけでは終われない、今をどう生きるかを突きつける予言の映画

 映画「福田村事件」を観ました。
 この映画は1923年9月1日の関東大震災から5日後の9月6日、震災直後の混乱の中で実際に起こった虐殺事件・福田村事件を題材にした映画で、監督はオウム真理教(現アーレフ)の信者たちにカメラを向け、オウム事件の本質に迫った「A」「A2」や、官邸記者会見で鋭い質問を投げかける東京新聞社会部記者望月衣塑子が、辺野古基地移設問題や森友学園問題、伊藤詩織準強姦事件、加計学園問題などの取材に臨む姿に密着した「i 新聞記者ドキュメント」など、数々の社会派ドキュメンタリー作品を手がけてきた森達也監督の、自身初の劇映画作品です。
 第一次世界大戦が終結し、日本は深刻な不況に陥っていました。1919年には日本統治下にあった朝鮮半島で三・一独立運動が起こり、朝鮮総督府は軍隊と警察で徹底的な弾圧を行っていました。日本政府やメディアはその頃から「不逞鮮人(ふていせんじん)」という差別語を使い、「朝鮮人は暴徒だ」と警戒を煽る報道を重ねていました。
 不穏な時代の空気のなか1923年9月1日、関東大震災が発生し、10万を超える人の命が失われました。混乱に乗じて飛び交ったのは、「朝鮮人が集団で襲ってくる」、「朝鮮人が放火をした」などの流言でした。これらの根拠のないデマが広がるのには内務省の関与がありました。またそのような流言を新聞が「事実」として報道し、広めました。
 関東地方に戒厳令がしかれ、軍や警察は朝鮮人をはじめ、中国人や社会主義を唱える日本人に対しても厳しい取り締りを行いました。「朝鮮人に襲われるかもしれない」と怯えた民衆もまた、政府の呼びかけに応じて各地で自警団を組織しました。未曽有の混乱の中、数千人もの朝鮮人や中国人、日本人が虐殺されました。

フィクションだからこそ100年前の一つの事実からいくつもの真実が今に届けられる

 地震から5日後の9月6日、香川から関東へやってきた沼部新助率いる被差別部落出身の行商団15名が千葉県福田村から次の地に向かうために利根川の渡し場に着きます。沼部と渡し守の小さな口論に端を発し、隣村の村民と合わせて約200人の集団心理に火がつき、後に歴史に葬られる大虐殺が起こってしまいます。福田村事件といわれるこの事件で犠牲になったのは香川県三豊郡(現三豊市)の薬売り行商人15名。うち犠牲者は、妊婦や2歳、4歳、6歳の幼児をふくむ9名。事件が生存者や遺族から多く語られなかったのは部落差別による二次被害を恐れたとも言われています。
 検挙されたのは、福田村の自警団員4名および隣接する田中村の自警団員4名で、騒擾(そうじょう)殺人に問われましたが、被告人らは「国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と主張しました。
 判決は、田中村の1名のみ「懲役2年、執行猶予3年」、あとの7名には大審院で実刑判決が出されましたが、受刑者全員が確定判決から2年5か月後、昭和天皇即位による恩赦で釈放されました。その後、太平洋戦争へと突き進む日本の大陸支配は強まり、この事件は歴史の彼方へと追いやられ、長い間封印されたままになっていました。
 この映画を観てまず、事件から100年後の今を生きるわたしが傍観者ではいられない苦しさといら立ちと痛さと悔恨と恐怖につつまれてしまう感覚に襲われました。
 ドキュメンタリー作家の森監督が、この映画では古めかしいほど劇映画の枠組みを守っていることを意外に感じました。わたしはフィクションとノンフィクションの区別を煩わしく感じるのですが、この映画はまさしくフィクションであることでこんな事実・事件があったという過去形ではない今を問うドキュメンタリー性に満ち溢れていました。森達也監督と、わたしにはなじみ深い若松孝二と映画作りをしてきたチームが出会い、つくりあげた稀有の映画だと思います。
 これ以上ないと思えるほど練り上げられた脚本は、細かいセリフやしぐさのひとつひとつに人間関係や時代背景が丁寧に描かれていて、どこにでもあったであろう日本の村々の因習のもとで村人ひとりひとりの心のうちに深く入り込む脚本でした。それは佐伯俊道、井上準一、荒井晴彦という、映画作りのすべてを知り尽くした3人の映画職人がなせる業なのかなと思います。

朝鮮人なら殺してもええんか

 静かに滑り出した村の物語はその時代から100年たった今の地方都市、たとえばわたしの住む大阪府能勢町の自然や空気までも呑み込まれるようなリアリティーを感じました。日々を生きる村人の心の中に忍び寄るものは、侵略による領土拡張で朝鮮半島と中国大陸の土地と人々を支配する野望を国民大衆にも広げ、植え付ける国家の情報管理と統制でした。
 実際、震災後3日朝には内務省警保局長が「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、爆弾を所持するものもあり、町村当局者は在郷軍人分会、消防隊、青年団等と一致協力して警戒し、鮮人の行動に対しては厳密なる取締をするように」との通達を全国に発信しました。
 当時の人々が国や軍部の目論見どおり、朝鮮人が集団で襲ってくると信じてしまったとしたら、1910年の韓国併合以来、朝鮮人が理不尽な暴力と差別と強制労働を強いられ、命までも奪われていることを知っていて、復讐されるという恐怖を募らせていたからでしょう。だとすれば、曲がりなりにも平穏だった日常が壊れてしまった震災によって流言飛語やデマは人々の心の奥の本音をさらけ出すきっかけになったことでしょう。
 内務省の通達は日本国家の朝鮮半島と中国大陸における暴虐と人権抑圧を認めていることを表していますが、だからといってその後のアジアの各地でおびただしい犠牲を強いた責任が国家と軍だけにあったのではないことをこそ、この映画は教えてくれます。
 時を追うごとに鈍くよどむ恐怖は「村を守る」という大義名分に助けられ、次第に残虐行為の準備へと高まり、変化していきます。それと共に、村人たちの心も刹那的な快楽と暴力へとすさんでいくのでした。
 もちろん、この映画では被害者となった被差別部落の人たちが生まれた土地から離れ、全国各地を行商してまわらざるを得ない過酷な現実も垣間見せるのですが、つつましく暮らしていたはずの善き人々200人がよってたかって15名に襲い掛かり、9人を虐殺し、「お上の言うとおりに村を守るためだった」と主張する残虐な加害者になってしまうプロセスの一部始終にわたしを含む観客は立ち合うことになります。100年前に起こった虐殺を止めることはできなかったのかと問いながら村人たちと時間を共にします。その虐殺は朝鮮人と間違って日本人を殺したのではなく、誰でもよかった…。
 行商人のリーダーが放った「朝鮮人なら殺してもええんか」と放った言葉がいつまでも心に残っています。そして…、赤ん坊を背負い、夫が震災でどうなったのかという不安で心が止まった一人の女性がいきなり彼の脳天に鳶口(とびぐち)を振り下ろした瞬間、村人の心は戻ることができない橋を渡ってしまいました。この虐殺がごく普通の人々による無言の暴力からはじまったのだと思い知らされます。そして、今でいうリベラルな人たちは結局この虐殺を止めることはできませんでした。

100年前の虐殺事件を追体験する映画は、行き場を失う今の時代に映すスクリーンを探し続ける

 100年前の事件を追体験するこの映画は、わたしたちが生きている日本と世界のとても危険な現実をするどく教えてくれます。
 100年前とは別世界のような情報過多に身を置きながら、どの情報にも何らかのバイアスが働いていて、わたしたちは何を信じればいいのかわからない時代を生きています。しかしながら、確実にわたしたちは100年前の虐殺へと突き進み、行き場を失うひとびとの心の内を追体験しているように思います。
 だからこそ、このような虐殺を追体験しないように一度立ち止まって自分をみつめ、ひとをみつめ、日本という国の過去をみつめ、世界の未来をみつめなければと思いました
 世界が、日本が、わたしたちが取り返しのつかないところに行ってしまう前に、まだの方はぜひご覧いただけたらと思います。